キリストの日に備える者

10月15日説教

梁在哲牧師

 

創世記6章5~8節     フィリピの信徒への手紙1章1~11節

ノアの箱舟の物語は、主なる神が「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」ゆえに、大洪水を起こされたと語り継いでいる(創世記6:5~6)。主イエスは、ご自身再び来られるその終りの日には、ノアの洪水のような破滅的な出来事が襲って来ると言われた。(ルカ17:26~27)。詩編には、韻律に富む英文学の詩のようにヘブライ語のアルファベット28文字から始まる8つのアルファベットの詩編があり、その最初のものが詩編9篇である。詩編の記者ダビデは、主なる神の義なる裁きは、一時のことではなく、裁きの御座に着いておられ、とこしえに公平に裁かれる主なる神を褒め称えている。(詩編9:8~9)。このように旧・新約聖書の御言葉は、全ての人間は世の終りの日に神の裁きの前に立たされることを貫いている。

使徒パウロは、第2回目の伝道旅行の際、「マケドニア州に渡って来て私たちを助けてください」と願う幻を見て、フィリピに渡り、ヨ-ロッパで最初の教会を造り上げた。パウロは、主が再び来られるその終りの日を待ち望みつつ、キリストの日に備えるようにフィリピ教会の人々に勧めた(フィリピ1:9~11)。そして、父なる神の「善い業」は、自分を通してフィリピに福音が伝えられたその日から始まり、主が再び来られるキリストの日までにその業は成し遂げられると、確信していた(1:6)。父なる神の善い業の最初の日は、世の教会毎にそれぞれ異なる。父なる神は、南房教会にて信仰の先達とそして今日のわたしたちを通して善い業を始められた。しかし、万物が新しくされ、御救いの善い業が完成される日は、皆、同じ日となる。

父なる神は、天地万物と人間を創造された第6日日に、「見よ、それは極めて良かった」と言われた(創世記1:31)。ところが、父なる神が、御子イエスの福音を通して、またその十字架の犠牲を通してわたしたちを救われたこと以外、この世に「善い業」があるだろうか。それゆえ、父なる神の御救いの業こそ、「新たな天地創造」であり、「善い業」に他ならない。いつ、どのように、主が再び来られるのか、我々には測り知れない。それゆえ、ある者は、目をつぶして知らないふりをし、また完全に無視して、忘れてしまい、ある者は、恐れ過ぎている。我々は、御子イエスを通して始められた父なる神の「善い業」の恵みに感謝し、主が再び来られるその「キリストの日」を待ち望んでいる。そして、父なる神の「善い業」が完成され、万物が新しくされるその「キリストの日」に備えつつ、聖霊の賜物の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとを讃え続けたいと祈り、願う。

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