主を見つめながら走り抜く者

10月22日説教

梁在哲牧師

 

士師記7章1~8節  ヘブライ人への手紙11章32節~12章2節

ヘブライ人への手紙が誰によっていつ、どこで書かれたのかを巡って様々な議論が繰り広げられて来たが、一つ確かなことは、この手紙が当時ローマの家庭教会宛に送られた事実である。手紙の記者は、迫害に直面していた彼らを励まし、その苦難を直視し、乗り越えるように勧めている。殊に11章は、「信仰の章」とも呼ばれるほどアベルからサムエルに至るまで信仰の先人たちの模範が綴られている。記者は、そのようなおびただし証人に囲まれて信仰の競走に臨む上で人生の全ての重荷を主の御前に降ろし、絡みつく罪を脱ぎ捨てて信仰の創始者でおられる主イエスを見つめながら忍耐強く走り抜くように励ましている(ヘブライ12:1~2)。

主なる神は、民の心がおごり、自分の力を過信しないようにギデオンに「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と言われた(士師記7:2)。そして自分を過信せず、慎重に手から水をすすった3百人をもってミディアン人をあなたの手に渡そうと言われた(7節)。主イエスの「ムナの例え話」で、ある者は、神の御旨を誤解してしまい、預かった賜物を全く用いらず、言い訳だけを言った(ルカ19:21)。そのように、自分の力を過信し、おごる心に傾いた者があれば、また神の御旨を誤解してしまい、恐れ過ぎて言訳ばかり言ってしまう者もある。

イスラエルの民は、出エジプトの際、主なる神の奇跡の業を何度も目の当たりしながらも頑な心のゆえに、心の定まらない不正直で不従順であった。それゆえ、詩編の記者は、祖先たちが、犯した不信仰を倣わずに、頑なさを捨てて、心を定め、正直な者となり、主なる神に忠実に従って歩みなさいと戒めている(詩編78:8)。我々も人生の全ての苦しみを主の御前に降ろし、罪を赦された者として絡みつく罪の古着を脱ぎ捨てて、身を軽くして信仰の競走の出発点に立たねばならない。そして、主の御前にへりくだって心を定め、正直な者となり、忠実に従い、主を見つめながら忍耐強く走り抜きたいと祈り、願う。

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