永遠の命をもたらす掟

11月5日説教

梁在哲牧師

 

創世記3章1~15節      ローマの信徒への手紙7章7~13節

主なる 神は、まだ一人であったアダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われた(創世記2:16~17)。ところが、後に蛇に唆され、誘惑に陥ってしまい、その実を取って食べたエバは、一緖にいた男にも渡したので彼も食べた(創世記3:6)。こうしてヘビは、主なる神より命じられた善い掟を悪用してエバを欺いてアダムとエバは、罪を犯し、堕落の道を彷徨い、死ぬ存在となった。使徒パウロもヘビが主なる神の善い掟を悪用してエバを欺いたように「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」と神に命じられた善い掟を守り切れない自分の弱さと醜さを告白した(ローマ7:11)。

福音書の記者も、父なる神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛され、その独り子主イエスが世のまことの光りとして来られたにも拘わらず、人間は、その堕落のゆえに、「光よりも闇の方を好んで光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と罪に陥っている人間の姿を伝えている(ヨハネ3:19~20)。エデンの園で死ぬべきではない存在であったのにアダムとエバは、死ぬ者となる矛盾に落ちてしまった。矛盾とは、「本来あるべきものがなくなっており、逆に本来あるべきではないものがあるようになっている状態」であるからである。その意味においてアダムとエバの死は、本来、矛盾ではないところにいたのに、そこから落ちてしまったゆえに、「究極の矛盾」ではなかろうか。

本日、主日礼拝は、先に天に召された信仰の先達を覚え、召天者記念礼拝として捧げられる。私どもの南房教会の信仰の先達もその「究極の矛盾」について、また、「信仰と人生の本質」をそれぞれの形で追い求め続けたと思われる。父なる神は、蛇のような暗闇の力が悪用することの出来ない全く新しい「永遠の命をもたらす掟」を御子イエス・キリストの御手を通してお授けになられた。それは、十字架の上で釘に打たれた主イエス・キリストの御手と、復活されてトマスをはじめ弟子たちに示された主イエス・キリストの御手による全く新しい「永遠の命をもたらす掟」ではなかろうか。わたしたちは、聖霊の御助けによってその「永遠の命をもたらす掟」に生きることが出来るように祈り、願う。

前回 目次へ 次回