御名によって真実だけを告げる者

12月3日説教

梁在哲牧師

 

列王記上22章6~17節  ペトロの手紙二1章19節~2章3節

年間の教会暦の初日となるアドベントの朝、主日礼拝の恵みに感謝し、このアドベントの期間は、主の降誕と再臨を待ち望みつつ、悔い改める時として守られる。旧約聖書の列王記上22章の箇所は、「御名によって真実だけを告げる者」を通して我々が「何を悔い改めるべきか」について伝えている。北イスラエルのアハブ王と南ユダヤのヨシャファト王は、アラム(今のシリア)の国の支配下にあるラモト・ギレアドの地を奪還するために暫く、手を組むようになった(列王記22:3~4)。先ず、アハブ王は、400人の預言者たちを呼び集め、「戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」と聞いたが、彼らは王の顔色ばかりを気にして忖度し、口を揃えて「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」と答えた(6節)。

しかし、アハブ王は、彼らの声に満足出来ず、ミカヤ一人の言葉にしつこくこだわった。アハブ王は、内心、彼ら400人の偽りの言葉によって自分は、空しい王座に座っていることをよく知っていたからである。それゆえ、アハブ王は如何なる反対の声も許さず、無理やりにミカヤ一人の同意を得て満場一致で賛同を得ようと、茶番劇を施した。彼は、自分の都合の良いことのみ選び、都合の悪いことは、徹底的に退け、自分の強さにこだわり続けた。そして、真実を求めながらもその真実に真正面から向き合うことを拒み、「御名によって真実だけを告げる者」ミカヤを排斥してしまった。王の権力に忖度した400人の預言者のように我々は、現実と妥協し、真実の前に目をつぶして知らないふりをしてしまう自分の弱さに気づかされる。

ペトロの手紙は、迫害と主の再臨を否定する異端の勢力に覆われていた教会宛にローマで書かれた手紙として知られている。ペトロは、変貌の山で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)、という天のお声が聞えて来たゆえに、自分には、「預言の言葉」は、一層、確かなものとなっているし、心の中にキリストが明星のように昇る時まで暗い所に輝くともし火としてその「預言の言葉」に留意しなさいと勧めている。また、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語った聖書の預言は、自分勝手に解釈すべきではないと願った(ペトロⅡ1:19~21)。それゆえ、我々は、日本基督教団信仰告白の始めに、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、」と告白している。我々は、夜明けの明星が心の中に昇る時まで暗い所に輝くともし火に照らされ、主の降誕と再臨を待ち望み、空しい強さにより頼む自分の弱さを悔い改めつつ、クリスマスを迎えたいと願う。

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