メシアへの信仰

2月25日説教

梁在哲牧師

 

列王記下6章8節~17節    ヨハネによる福音書9章1節~12節

目の病気は、当時中近東で良く見られるもので目の見えない者が癒されることは、メシアのしるしとして以前から預言され、イザヤは、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」と預言した(イザヤ35:5)。それゆえ、牢屋の中で洗礼者ヨハネが弟子たちをイエスのほうに遣わして尋ねた際、イエスは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見える」と答えられた(マタイ11:4~5)。当時、ユダヤ人たちは、病や苦しみのその一つ一つが罪の結果だと信じ込んだ。彼らは生まれつき目の見えないことがその人の罪の結果なのか、両親の罪の結果なのかを巡って言い争った。 

弟子たちもその巷で言われる宿題をイエスに尋ねた。しかし、イエスは、父なる神は、哀れなその人を癒してくださることによってご自分の栄光が現われ、人間の全ての苦しみも万事が益となるようにしてくださると言われた(ヨハネ9:2~4)。そして、地面に唾をし、唾で土をこねてその生まれつき目の見えない人の目にお塗りになり、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た(ヨハネ9:6~7)。父なる神に遣わされた御子イエスに彼もシロアムの池に遣わされ、目が見えるようになった。

アラム(シリア)の王がイスラエルと戦っていた時、神の人エリシャは、主なる神に祈って従者の霊的な目が開かれた(列王記下6:16~17)。ダビデは、灯が神殿を照らし、繁栄と生命を表わすように自分の命を敵の手から、また闇のような危機に陥った時にも救ってくださった主なる神を褒め称えた(詩編18:28~29)。後にダビデは、自分を「イスラエルの灯」と自称した。人間の目は、心の灯とも言われる。生まれつき目の見えない人は、父なる神に遣わされた御子イエスによって心の灯を灯され、闇を照らされ、遣わされる者となった。心の灯を輝かし、闇を照らしてくださる御子イエスに遣わされる者として永遠の命への望みに満たされるイースターを迎えたいと祈り、願う。

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