見ずに触れずに信じる者

4月7日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記15章1~11節 ヨハネによる福音書20章19~31節

主イエスは、復活なさった週の初めの日の夕方、弟子たちの隠れ家に現れた。十字架の刑に処せられたナザレのイエスに従い、彼の仲間と見なされたら、十字架の処罰から逃れることは出来なかった。弟子たちは、命にかかわるほど、危険なことになるから隠れ家に身を隠していた。ところが、主は来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(ヨハネ20:19)。そこには、長いいきさつの説明や条件など一切なくて、ただ主の平和のご挨拶、一言で先生を見捨てて逃げてしまった恥ずかしさや気まずさは、全て消え去り、破られた関係は、修復された。

主は、決して弟子たちを責めるためご自分の傷をお見せになった訳ではない。もし、主が、ただご自分の傷だけを見せつけたら、弟子たちとの間に、その気まずさや恥ずかしさ、憎しみや逃げてしまう気持ちばかり残されたと思われる。しかし、主の平和のご挨拶があるからこそ、それら全ては、消え去り、まったく新しい関係が結び直されたのではなかろうか。その後、弟子たちは、主を見て喜んで主は重ねて平和の挨拶をし、「父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなたがたを遣わす」と言われた(ヨハネ20:20~21)。

一方、八日後、主は、再び弟子たちの前に現われ、平和のご挨拶をされた後、八日前にその場にいなかったトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた。主の平和のご挨拶によって弟子たちは、皆喜び、「見ずに、触れずに信じる者」になるように励まされた。そこでトマスは、自分の手で主の傷に触れて確かめることはしなかったが、「わたしの主、わたしの神よ」と自分の信仰を告白した(27~28)。

葦の海で主なる神に救われたイスラエルの民の感謝と喜びに溢れる、「モーセの歌」は、罪と悪に蔓延っている世の中で主イエスを信じる者が救われる、救いの御業の影であり、神の国で救われる聖徒らの歌でもある。(ヨハネの黙示録15:3)。モ-セとイスラエルの民が葦の海を渡って主なる神を、「この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神」(出エジプト15:1~3)と褒め称えたようにトマスも疑心暗鬼の深い川を渡って「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。

詩編の記者は、異邦の国々から捨てられた石となったイスラエルを隅の親石と用いられた主なる神の救いを褒め称えた(詩編118:22~24)。ユダヤ人から退けられた救い主イエス・キリストを異邦人たちが隅の親石として受け入れたことこそ、わたしたちの目には、驚くべき神の御業ではなかろうか。主イエス・キリストの復活の朝、驚くべき主の御業の今日こそ、喜び祝い、喜び踊ろう。そして、見える物や触れられる言葉や情報などに満ち溢れている世の中、「見ずに、触れずに」、主イエス・キリストに信頼を寄せ続けることが出来るように祈り、願う。

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