ほどかれる死の力

3月31日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書55章1~11節    ヨハネによる福音書20章1~18節

主イエスが十字架の上で息を引き取られた時、全地が暗くなり、弟子たちの心も絶望のあまり、真っ暗になった。しかし、主は、以前弟子たちに「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を步かず命の光を持つ」と言われた(ヨハネ8:12)。後に弟子たちは復活なさった主に出会い、真っ暗な心はキリストの命の光に照らされ、朝日のように熱く燃える心に変えられ、確信をもって主を信じるようになった。それこそ、人智を遥かに超える命の光に照らされる主の復活の出来事である。使徒パウロは「死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた主イエスは、ご自分の復活を通して救いの御業を成し遂げられた」と証した(ローマ1:3~4)。

 ある神学者は、復活の出来事の前で慌てて動き出す人々の「うごき」そのものこそ、復活の本質であると解き明かした。走ったり、ぞいたり、泣いたり、すがりついたりする「うごき」の中で混乱する心が良く現われたからである。しかし、そのうごきは、主の復活の朝まで、強い力によって抑えられ、息を引き取られお墓の中に納められた主のご遺体も動き出すことは、出来なかった。しかし、週の初めの日、朝早く、地上にはびこっていた強い力が解かれたゆえに、我々は、「罪と死の力」の圧倒的な力が解かれた「復活の朝」を迎えている。

復活の朝は、厳しく守り抜いた「安息の日」から「主の初めの日」に動かされた日であり、「罪と死の奴隷の国」から、その罪と死の力が解かれ、「キリストにある自由の国」へ動かされた朝である。預言者イザヤは、罪と死の力から解き放たれて「キリストにある自由」へ動かされる喜びをバビロンの捕囚から解き放たれてエルサレムに導かれる喜びとして預言した(イザヤ55:12)。ダビデは、主なる神に禁じられた人口調査を実施した後、瀕死状態になったが、主なる神は、彼をよみから引き上げてくださり、墓穴に下ることを免れさせ、命を得させてくださった。それゆえ、ダビデは、墓穴のような死から引き上げられ、救い出され、動かされた主なる神の恵みを褒め称えた(詩編30:2~4)。

この復活の朝、我々は、長くて暗いトンネルや墓穴のような人生のどん底に陥っていると思う人、到底解決の手口が見えないと打ちひしがれている人、また理不尽の中でたたずむ人々がバビロンの捕囚のような悲しみや苦しみ、憂いや絶望から解かれ、キリストの復活の光に照らされるように願いつつ、皆、新しいエルサレムに動かされ、喜び祝いながら出て立ち、平和の内に導かれるように祈る。そして畏れながらも大いに喜びつつ、聖なるしるしと聖なる証の証人の道を全うすることが出来るように祈り、願う。

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