飲むべき杯への道

3月24日説教

梁在哲牧師

 

創世記22章1~19節     ヨハネによる福音書18章1~11節

イエスは永遠なる大祭司長としてご自身のため、また弟子たちのため、そして全ての教会のために祈られたその後、「弟子たちと一緖にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた(ヨハネ18:1)。昔ダビデは、息子アブサロムの謀反から逃れて主なる神に救いを求めつつ、泣きながらキドロンの川を渡った(詩編64:2~3)。そのようにダビデは、自分が犯した罪のために息子から逃げてその川を渡ったが、ダビデの子孫イエス・キリストは、私たち人間の罪を贖ってくださるためにその川を渡られた。

そこで裏切り者ユダが世を力で抑える軍隊と堕落した宗教指導者たちから遣わされた下役たちを引き連れてやって来た。彼らは剣とこん棒のような武器と松明や灯し火を手にして近づいて来た(ヨハネ18:3)。しかし、世の光りとして来られた主イエスの前で、そのような武器や松明などは、無力で空しいものに過ぎなかった。それゆえ、イエスは、緊迫した状況の中でも二度にわたって名乗り出された(18:4~8)。そして、先生を守ろうと剣をもって対抗するペトロに、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と諌められた(18:11)。

ペトロの行動は、弟子として当然のことであり、裏切り者ユダに比べたら尚更のことであった。しかし、おとこだてだけで神の御業を成し遂げるのは、出来ないゆえに、イエスは、前もって兵士たちに「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われた(18:8)。杯は、「運命」を表わすユダヤ的な表現であるがゆえに、イエスは、ゲッセマネで「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」と祈られた後、父なる神に与えられた杯、即ち十字架の死を受け入れるために前に進まれた(マタイ26:39)。

十字架の死をもたらしたのは、ユダの裏切りや宗教指導者たちの陰謀ではなく、父なる神がお与えになった杯であるからであった。奇跡的に授けられた自分の息子を捧げなければならないその矛盾の中で主なる神の試みは、アブラハムにとって従順出来ない程のものであった。しかし、アブラハムは、静かに従い、その試みを乗り超え、祝福された。アブラハムの子孫からイエス・キリストがお生まれになるゆえに、その祝福は、アブラハムの子孫を超えて、全世界の人々にまで及ぼすようになる(創世記22:18)。 

世の旅路で訪れる苦難の日に、愛する家族や人を先に送り、仕事を失い、予期せぬ病に襲われ、持ち物を奪い取られ、友人から裏切られ、思い出したくない思いを強いられる。その時、心の底から湧き上がり、言葉には言い表せない悲しみと怒りの嘆きの中で真の祈りが捧げられるのではなかろうか。主イエスは、「飲むべき杯への道」へ進まれ、裂かれた傷と流された血によって「新しい生きた道」を私たちのために開いてくださった(ヘブライ10:19~20)。どうか、聖霊の御助けによって自分の願い通りではなく、御心のままにと祈りつつ、主イエス・キリストがご自分の肉を通して開いてくださった「新しい生きた道」を全う出来るように祈り、願う。

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