傷と血による勝利

3月17日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書63章1~9節   ヨハネによる福音書12章20~36節

イエスがシモンの家で夕食会を終えた翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出て、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と叫び続けた(ヨハネ12:12~13)。その光景を見たファリサイ派の人々は、「見よ、何をしても無馱だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と互いに言った(12:19)。主がエルサレムに入城され、最後の受難の一週間が始まり、罪と死の力が打ち破られたゆえに、その光景は、「勝利の入城」とも呼ばれる。

ところが、祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た何人かのギリシャ人がイエスを訪問し、面会を求めた。多分、彼らの願いは、叶わられ、救いについて尋ねたと思われる。主は、ユダヤ人たちの不信仰と遠くから訪ねて来たギリシャ人たちの信仰をご覧になって近づいて来る十字架を仰ぎ、フィリポとアンデレにご自身栄光を受ける時が来たと答えられた(12:23)。救いには、ご自分の十字架の死が求められ、その犠牲を通して全ての人に復活の命をお与えになることを主は、「一粒の麦」を挙げて例えられた。そしてご自分の犠牲と共に信じる者に求められる犠牲をも言われた(12:24~25)。

その後、主は、耐え難い不安と心騒ぐ中で父なる神に祈り、信頼を寄せつつ、御自ら十字架へ進まれる覚悟を決められた。それゆえ、御子は、ご自分の「裂かれた傷と流された血」によって勝利をおさめられ、真の救いの恵みを成し遂げられ、父なる神は、御名の栄光を現わされた(12:27~28)。イスラエルの苦難は、エジプトの国でヨセフが死んだ後、始まったが、主なる神は、愛と御憐れみをもってイスラエルの苦難をご自分の苦難とし、ご自分に仕える御使いを通して彼らを救ってくださった(イザヤ63:9)。そのように父なる神は、御子イエスを通して新しいイスラエルの民を救ってくださった。

ダビデは、サウル王から追い込まれ、逃げ続ける時にも主なる神は、敵のように自分の苦しみを「侮ることなく、蔑むことなく、また顔を隠すことなく」、助けを求める自分の叫びを聞いてくださったゆえに、主なる神を褒め称えた(詩編22:25)。そして、主なる神のその救いの恵みは、イスラエルの民だけではなく、地の果てまでに及び、彼ら異邦人たちは、立ち帰り、主なる神にひれ伏し、畏れ敬うようになると褒め称えた(22:28)。

御子イエスは、心騒ぐ中で全てを父なる神に委ね、祈り、十字架の道へ進まれる覚悟を決められ、従順でおられたゆえに、「裂かれた傷と流された血による勝利」をおさめられた。近藤勝彦元東京神学大学学長は、「神の御言葉は、自分の願いや愛国心に優って、目に見える物への執着にも優って、確かな救いに導くゆえに、我々は、敵に対する恨みや反抗心、また人への好みなどそれらを一旦、断ち切って神の御言葉を聞く覚悟が求められる」と解き明かされた。我々も主イエスの覚悟に倣い、信じる者に求められる自分の十字架を背負って主に従い、聖書の解き明かしを通して届けられる神の御言葉に覚悟をもって聞き続けたいと祈り願う。

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