イエスを弔う者

3月10日説教

梁在哲牧師

 

サムエル記上9章27節~10章7節

ヨハネによる福音書12章1節~8節

主イエスは、最後の過越祭の前に弟子たちと一緒にエルサレムに向かって行かれる途中でシモンの家があるべタニアで夕食をとられた。ラザロとシモンは、同じ村の友たちで特にラザロとマルタ・マリア姉妹3人兄弟は、12人の弟子たちに並ぶ協力者であり、友たちの砕けた間柄だった思われる。ところが、ユダヤ人の大群衆は、イエスは勿論、イエスが死者の中から生き返らせたラザロを見るために皆集まって来た(ヨハネ12:9)。ラザロの復活は、キリストの栄光であると同時に、ユダヤ人にとってそれは、好奇心や妬みと憎しみの的でもあった。

そこでマリアは、純粹で非常に高価なナルドの香油を一リトラをイエスに捧げ、イエスの足に塗った(12:3)。当時女性が自分の髪を解すことは、恥をかく行動であったが、マリアはへりくだって自分を低くし自分の髪を解してイエスの足を拭い、主イエスを高くあがめた。それゆえ、マリアの香ばしい奉仕は、福音が宣べ伝えられる全世界に広がった。しかし、その尊い奉仕の香りも、施しを建前にして本音は、私腹を肥やしたイスカリオテ・ユダの憤りだけを買い、ユダはマリアを厳しく非難した(12:4~5)。 

マリアが主イエスの葬りの日のために香油を注いだ訳ではなかったが、しかし、マリアの愛と真心をよく知っておられたイエスは、彼女が取った行動をもっと高く受け止めてくださった(12:7~8)。それは、父なる神に遣わされ、十字架で亡くなられる一回限りの出来事で、マリアの奉仕を通して表されたその信仰こそ、貧しい人々を施すことより遥かに超えるものであったからである。その一方、祭司長たちは、人を生かす宗教の名のもとでむしろ、イエスは勿論、ラザロまで殺そうと企む矛盾に陥っていた(12:10~11)。

旧約聖書において油を注がれる儀式は、王、祭司長、預言者が主なる神に仕える者としてその務めに就く際、聖別され、聖霊の賜物を授けられるものであった。イスラエルの最初の王となるサウルもサムエルに油を注がれた(サムエル上10:1)。しかし、彼らは主なる神と人間の間で執り成しする仲介者として来るべきメシア、油注がれた者即ち、キリストの影であった。それゆえ、ダビデは、自分は油注がれた者として来るべき救い主、メシアを預言し、来るべき油注がれた者、キリストの影に過ぎないと告白した(詩編2:4~12)。

御子イエス・キリストは、父なる神に遣わされ、油注がれ、わたしたちの預言者と祭司、また、王としてお働きになられた。そして「苦難の僕」としてへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でおられた。我々は主イエスの十字架の苦しみを覚え、その死を泣き哀しみ、主イエスを弔う者としてこのレントの時を過ごしている。そして、我々は「イエスを弔う者」に止まることなく、復活された主イエスが泣いているマグダラのマリアに現われ、慰めてくださったように我々の哀しみと涙をも拭ってくださり、喜びに満ち溢れるイースターを迎えたいと祈り、願う。

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