歩み寄り、近寄る主

4月21日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書62章1~5節     ヨハネによる福音書21章15~25節

復活のイエスは、ガリラヤ湖畔で再会した弟子たちと一緒に食事をした。その後、ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを 愛しているか 」と言われたので、悲しくなった。ペトロは、その都度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え続け、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい 」と言われた(ヨハネ21:17)。それは個人の願いや思い付きではなくて、復活の主イエスより託された使命であり、歩み寄り、近寄って下さり、問いかけを繰り返した上で、共にお働きになる復活の主の宣言であった。その宣言こそ、私どもの教会の宣教を、そして日々の歩みを支えてくださるものである

ところが、復活の主イエスが問い掛けられた2度の「愛」は、御自ら、十字架の死にいたるまで犠牲する「アガぺ」であり、ペトロが、その都度、答えた「愛」は、人間同士の愛で「フィレオ-」であった。そして主が3度目にペトロの問い掛けられた「愛」は、ペトロと同じように「フィレオ-」であった。主は、決して上からの目線ではなく、ペトロの思いや苦悩、また努力に合わせて、その溝を埋めつつ、歩み寄り、近寄られた。主は、ご自分の問い掛けに答えたペトロの言葉に近寄り、歩み寄られ、共にお働きになると言われた。そして、ペトロが「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」その時にも、一緒について行かれると言われた(21:18)。

預言者イザヤは、キリストが教会を通して救いの福音を絶えず、宣べ伝えると預言した(イザヤ62:1)。その予言は、主のお体なる教会において成就され、教会は、花婿であるキリストの花嫁であり、キリストにめとられ、喜ばれるようになる(62:5)。詩編の記者は、イスラエルこそ、主なる神が一緒について行かれる民であるがゆえに、主なる神こそ、自分の味方であると誉め称えた(詩編118:6~7)。復活の主イエスは、決してペトロの答えが完璧だったから彼をお遣わしになった訳ではない。ペトロのように弱くて心の定まらない私たちの苦しみや悩み、また悲しい思いにも復活の主イエスは、歩み寄り、近寄って私たちを世にお遣わしになる。我々は、共にお働き、共に行かれる復活の主イエスに励まされ、主のお体なる教会と主に仕えることが出来るように祈り、願う。

前回 目次へ 次回