福音を担う者と共にいる主

4月28日説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書36章24~28節 ヨハネによる福音書15章18~27節

主イエスは、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、ユダが出て行くと、まことの葡萄の木であるご自分に枝として結ばれる命の交わりについて語られた。その後、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と「新しい掟」を言われた(ヨハネ15:12~17)。また、弟子たちが世から憎まれる前にご自分を憎んでいたことを覚えなさいと言われた(18節)。そして、世の人々が弟子たちを迫害する根本的な理由は、ご自分をお遣わしになった父なる神を知らないからであると弟子たちを慰めてくださった(21節)。結局、ユダヤ人たちは主なる神に選ばれ、仕える民として自慢しながら御子を憎んで父なる神をも憎む自己矛盾に陥っていた(23節)。最後に主は、「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」と(詩編35:19)、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためであると証された(ヨハネ15:25)。

使徒パウロもイエスを迫害した時、自分が信じていない時、知らずにイエスを迫害したと悔い改め、告白した(テモテⅠ1:13)。ついに主は、世の憎しみから弟子たちを助けてくださる弁護者、真理の霊を送る約束をして下さった。そして真理でおられるご自身について聖霊が証しなさると言われた(ヨハネ15:26)。預言者エゼキエルは、紀元前586年、エルサレムの滅亡の直前、バビロンの捕囚となっていたイスラエル人々に警告をし、エルサレムの滅亡の後には、希望のメッセージをも告げた。彼は、主なる神は一人一人にお働きになり、心を新たにさせ、新しい霊をもって主なる神に答える時が、必ず訪れると預言した(エゼキエル36:26~27)。

そして、主は、聖霊の証と一緒に弟子たちの証をも求められた(ヨハネ15:27)。しかし、両方の証は別のものではなく、聖霊が共におられ、導いてくださるゆえに、主のお体なる教会は、前進し続けて来た。南房教会も、毎年10月の第3主日礼拝に「信徒の証し」の恵みにあずかり、前進し続けるように願っている。大祭司に尋問されたペトロも、「自分たちはこの事実の証人であり、また、聖霊も、このことを証しておられる」と証した(使徒5:32)。父なる神は、世の憎しみに憎しみをもって報復せず、御子イエスの十字架を通してその憎しみを打ち破られた。そして御子によって父なる神のもとから遣わされた聖霊は、復活の主より世に遣わされ、福音を担い、十字架と復活を証する私たちと共におられ、導いて下さる。聖霊の証と共に我々の証を通して主のお体なる教会が一歩ずつ、前進し続けるように祈り、願う。

前回 目次へ 次回