ダビデの子にホサナ 2009年4月5日礼拝説教 マタイ21:1~11 主イエスがエルサレムに入城されるとき、大勢の群集が、木の枝を切って道に敷きました。この木の枝が棕櫚と言われ、復活前第一主日を「棕櫚の主日」と呼んでいます。 主イエスは、二人の弟子に子ろばを連れてきなさい、と命じられました。何故、子ろばが必要なのでしょうか。主は「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方でろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と言われます。これはゼカリヤ9章9節からの引用ですが、マタイは「シオンの娘よ、大いに踊れ」という所を「告げよ」と変えました。ここにはイザヤ62章11節が影響しているものと思われます。 この子ろばを引いてくるとき、主はその持ち主に「主がお入り用なのです」と言いなさいと命じられました。子ろばは、たくましい馬と較べると、はなはだしく見劣りもします。それはまた、土の器である私たちの姿でもありましょう。 しかし主イエスは、そんな私たちに「主がお入り用なのです」と招かれます。 子ろばに乗る王は「柔和なる王」を表しています。「柔和」は、悩まされた、苦しまれたといった意味があります。子ろばに乗ってこられるイエスは、私たちの罪のために苦しまれ、痛みを受けられた苦難の主なのです。 人はイエスを「ダビデの子にホサナ」と叫び、賛美しました。だが「ホサナ」という賛美は「どうぞ救ってください」と言う祈りの言葉なのです。これは私たちの心の叫びであり、求めではないでしょうか。歓喜とお祭り騒ぎの中に、罪人である私たちの悲しみやうめきが、隠された低音部のように響いているのです。この叫びに、今、主イエスは私たちのために苦しみ、痛む主メシアとして来てくださったのです。 |