生涯のささげもの

   20096月28日 礼拝説教  原田史郎牧師

                        コリント信徒への手紙Ⅱ8章1~15節

初代教会の課題のひとつにエルサレム教会の貧しさがありました。このため、パウロは、伝道旅行の中でも、母教会への募金を訴えてきました。この募金活動は、ただ貧しい教会への援助というだけでなく、「互いに助け合う」という連帯の証しでもあります。特に、異邦人の教会は、エルサレム教会から霊的なものを受けており、物質的なものをもって支える相互関係を、パウロは重視していました(ロマ15:27)。

使徒は、まず、マケドニア州の教会の恵みを紹介します。「彼らは、苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさになった」ということです。 彼らの「神の恵み」は、本来ならば相対立する「喜び」と「貧しさ」とが両方相俟って、力以上のささげものになりました。

 通常、わたしたちはなかなかこのようにはいきません。「貧すれば貪する」のです。しかし、富めるものが、多くささげるかといえば、そうとも限りません。むしろ、貧しいものの方が、貧しさを知っているが故に、貧しいものを助けるのです。

パウロが次にあげたことは、コリント教会の特性です。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから」と挙げ、マケドニアの教会に負けない神の恵みの豊かさを満たすものになって欲しいと訴えます。この豊かさは、コリント教会にとって、自明のものなのではなく、聖霊によって神から与えられたもなのです。

コリント教会は、問題の多い教会でした。しかし、ここでパウロは、コリントの良さ、賜物に目を向けます。わたしたちも、この南房教会に神さまから与えられた素晴らしい賜物を認め合い、主キリストの教会を形成していきたいものです。

最後に、イエス・キリストの模範がしめされます。主の貧しくなられることによって、わたしたちは、豊かになりました。ここの「生涯のささげもの」の原点があるのです。

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