我に返りて、気がつけば 2009年6月21日 礼拝説教 原田史郎 牧師 ルカ15章11~24節 ルカ福音書15章は、キリストのたとえ話のなかでも最も良く知られた話です。ここに出てくる父と息子は、父なる神とわたしたち人間のことを指しています。 ある日、二人息子のうち、次男は「お父さん、わたしの取り分を分けてください」と言い、それを、お金に換えて、遠い国へと行きました。 彼は、そこで、全財産を使い果たし、ついに、豚飼いにまでに身を落としました。というのは、当時のイスラエル杜会では、豚は、汚れた動物として食することが禁じられていました。言わば裏杜会の隠された働きでした。 その地方に飢饉が起こり、この息子は、飢餓のどん底に落ち込みました。豚のえさであるいなご豆でもって、腹を満たしたい位でした。 このどん底の中で、彼は、「我に返って」言いました。「そうだ、父のところには有り余るほどパンがある。わたしは、ここで飢え死にしそうだ。お父さん。わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。息子ではなく、雇い人の一人にしてください。」 しかし、父は、遠く離れていたのにも関らず、息子を「見付け」「憐れに思い」「走り寄って」「首に接吻」して言いました。「急いで、一番良い服を持ってきなさい。手に指輪を、足に履物を履かせなさい。」 ここに、神さまが、わたしたちに対して、持っておられる愛が示されています。神さまに背き、自分勝手な生き方をしているわたしたちは、生きる目的を見失い、罪と死の中に呻いているのです。 放蕩息子の父は、言います。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」。 誰でも、イエス・キリストに招かれています。罪に死んでいたわたしたちは、今、このたとえ話の息子のように、「我に返って、気がつく」者となりたいものです。 |