実を豊かに結ぶ人 2009年10月4日 礼拝説教 原田 史郎 牧師 詩編1編1~6節 詩編1篇1節は「いかに幸いなことか」(アシュレー)という言葉で始まっています。これは、詩編1篇の序詞であると同時に、詩編150編全体の序詞でもあります。この呼びかけで、思い起こすのは、「心の貧しい人は幸いである」と言われた、主イエスのお言葉です。この山上の説教でも、原文の最初の言葉は、「幸いなるかな」であります。 幸いな人とは、まず第一に、神なく祈りなき者との歩みに、組みしないということです。 アンカーバイブルは、「悪しき者の会議」「罪人の集まり」「嘲るものの法廷」と訳し、主を崇め、主を讃美する集合体、教会と歩みをまったく異にする、或いはそれと対立するグループに加担しない人だと言います。 しかし、積極的にいえば、幸いな人とは、神のみ言葉を慕う人、愛する人であります。「主の教えを愛し、・・昼も夜も口ずさむ人」です。ここで、「口ずさむ」とは、朗読する、朗詠するという意味もありますが、むしろ、申命記6章の戒めの実践です。 「これらの言葉を心に留め、・・座っているときも、歩くときも、寝ているときも起きているときも、・・これを語り聞かせなさい」(6:4~9) み言葉を、こころに留めるだけでなく、口ずさむことにより、み言葉が、より深く、わたしたちの行動を生み出す源泉になるのです。 このような人を、「流れのほとりに植えられた」木に喩えることが出来るでしょう。この流れは、すぐに干上がる谷川(ワディ)では、ありません。いつも水が流れている水路、農業用水路のようなものです。そこに入念に木が植えられるのです。 この木のように、その人は、「ときが巡りくれば実を結び、葉もしおれることがない」のです。ぶどうの枝が、幹に結びついているとき、豊かな実を結ぶように、(ヨハネ15:5) しっかりと、主イエスに結びつき、そのみ言葉に生きるものとなりましょう。 |