教えるキリスト

2010年1月31日 説教 原田多恵子牧師 

マルコによる福音書 4章1~9節

 

  主イエスは、会堂から出てガリラヤ湖畔で、舟から陸にいる大勢の群衆に「神の国」について教えられます。「たとえ」で語られます。「たとえ」は難解な真理を分かりやすく、易しく教えるためです。だが、そのたとえを通して、聞いている者に決断を迫るのです。

 

 「種まき」のたとえを主が話されたのは、種を蒔いていた人をご覧になったからでしょう。イスラエルでは種を蒔く時、人が蒔くのと、ろばの背におわせた種袋の隅を開けておき、ろばが歩くと自然に種が落ちるという、二つの方法がありました。

 「種」は御言葉で、「蒔く人」はキリストで、「蒔かれた地」は人の心の四つの在り方を示すものです。初めは、人の歩いて固めた細長い歩道です。次は、石の層の上に薄く土がかぶさっている地です。更に、茨の生えた地があり、最後は、「よい地、実を結ぶ地」です。

 

 道端に落ちた種は、無関心な人の有様を示しています。いくら福音を聞いても、関心を示さない人のことです。石地は根が浅いので、太陽が出ればすぐに枯れてしまいます。神の言葉を聞いた時、喜んで受け入れるのですが、何か「艱難や迫害があるとすぐに、つまずいて」しまいます。茨の生えた地は、農夫が根まで取らないので、「世の思い煩いや富の誘惑、欲望が御言葉を覆い塞ぐので実らない」のです。特に金銭は、しばしば人を倒す元凶になることはよく知られていることです。 最後の良き地は、よく耕されて、素直に種が入り、根づき、実を三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶということです。

 

 人は、本当に神さまの御言葉に信頼して歩めばその人の人生は、実り豊かなものになります。「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉通りに道を保つことです。」(詩編119:9)

 このたとえの地を四種類の人として分けるのではなく、わたしたちの信仰生活のその時々の有様を示すものでもあります。わたしたちは、実を結ぶものとして選ばれたのです。

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