いやしのキリスト

2010年2月7日 説教 原田史郎牧師 

マルコによる福音書 2章1~12節

 

 

  主イエスの評判がガリラヤ地方に広まったことは(1:28)、民衆の信仰的指導者である律法学者との軋轢を引き起こすこととなりました。その最初の論争が、この中風の人の癒しを巡って起こりました。

 主イエスが、再びカファルナウムの家に戻られたとき、四人の男が中風の人を運んできました。戸口まで人がいっぱいだったので、彼らは主イエスのおられるあたりの屋根をはがして、主の前に病人を床ごと釣り降ろしました。主は彼らの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。この四人の男たちは、主は必ず病をいやして下さる、という熱い期待と信頼を持っていたのです。

 でも何故、主は病の癒しでなく、まず罪の赦しを宣言したのでしょうか。わたしたちから見ると、まず病が治り、その後に心や魂の救いが来るように思います。

 しかし、当時のユダヤ人の病気の理解は、現代のわたしたちの考えとは違います。ユダヤ人は、病気と罪とを切り離すことをしませんでした。その例が、ある時、弟子たちが目の見えなくなった人を見て、主に尋ねたことに現れています。この人の不自由は両親のせいですか、それとも本人のせいですか、と彼らは尋ねました。

 これに対して主は、当時の人々の病気や不幸を罪が原因とする考えを、根底から覆すことを仰いました。それは誰の罪でもなく「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)。

 中風の人に対する罪の赦しの宣言は、主イエスが、神の子、真のメシアであることをマルコは証ししているのです。心の内で非難する律法学者に対して、主はこの「しるし」として、「起きて、床を坦いで歩け」と命じられました。その人は起き上がり、床を坦いで、人々の前を出ていきました。

 主イエスは、わたしたちの病をいやされるだけでなく、人間の魂の深い所にある罪をも赦されるお方であります。十字架の罪の赦しのみ業は、すでにもう始まっているのです。主イエスは、わたしたちの信仰と苦しみとを見ておられ、言葉を語られ、体の癒しと罪の許しとをくださる救い主なのです。

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