「十字架を背負う」

ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

牧師 原田 史郎

 

 「しかし、このわたしには、わたしの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはなりません。」

ガラテヤ教会の中には、ユダヤ人を慮(おもんばか)って、割礼を強要する人々がいました。パウロは、そんな彼らの態度を、世間体を重んじた、良く思われたい「肉について誇りたいための」ことに過ぎないと言います。

 9月中旬、わたしは教団社会委員会で東日本の被災地を問安しました。陸前高田や十津川など、全滅状態の惨さんたる光景を見ますと息を飲みました。そして、同時に、人間が営々と築き上げたものが大自然の前に、いかに無力であるのかと思い知らされました。もしわたしたちがこの世にすべての価値と目標を置いているならば、それを失ったときの無常感は、測り知れないとおもいます。

 そんな現地で、新生釜石教会の柳谷牧師は、「しかし、わたしたちが、キリストに目を向けるならば、キリストもまた、わたしたちと同じように十字架で傷つき、苦しまれ、呻かれたのです。キリストは死に、三日目に復活された。そこにわたしたちの希望があります。」と言っておられました。傷つかれたキリスト。そこにまた、復活のキリストをいただくわたしたちの誇りと希望があるのだと、改めて教えられたことでした。 

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