闇を破る光あれ 牧師 原田 史郎 創世記1章1~5節、24~31a節 聖書が語るわたしたちの世界は、神の「光あれ」の言葉から始まります。光のある前は、「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)」にありました。闇が全体を覆い、そこには、秩序も調和もなく、ただ混乱と混迷のみがあったのでした。この状態は、この聖書が書かれたときのイスラエルの姿と重なりあいます。この時代、神の民は、国を滅ぼされ、神殿を破壊され、神が与えられた約束の地を追われ、バビロンに捕囚として連れ行かれたのでした。(列王下25章以下) しかし、この混沌と闇の絶望的な世界に神の言葉が響きます。「神は言われた。“光あれ”こうして光があった。」 わたしたちの歩みにも、お先真っ暗、というときがあります。どこにも光が見えないで、希望のかけらも持てません。自分の力は弱く、過去の成功も名誉も傷つけられ、ただ空しさに闇が、心を覆うのです。そのようなとき、この創造物語は、わたしたちがどんな状況や状態であっても、神は「光あれ」と宣言され、そこに光が差し込んでくる希望について語ります。 次に「神はこの光を見て、良しとされた。」 この世界の存在、わたしたちの存在の根拠が、ここにあります。わたしたちは、つい欠けているもの、不足しているものに目が行き、自分を肯定出来ないことがあるのではないかと思います。人は誰でも不完全ですから、それは道理にかなっていることであります。だが、その中で、闇と混沌に支配され、光を失ってしまうこともまたあるのです。神がわたしたちを「良しとされた」ことを思い起こすことが大切です。 神は、み子イエスによって、わたしたちに平和と神との和解をもたらしてくださいました。(コロサイ1:19,20) 一度は罪によって失われた世界に、キリストによって、光と救いを与えてくださったのです。 |