恵みの御業を鎧として

牧師  原田 多恵子

イザヤ書59章12~20節

 

 イスラエルは捕囚から帰還したものの、社会の不正義、指導者の悪に悩まされ「主は正義の行われていないことを見られ」ました。また、民自身も自らの罪を知っていて「正義(ミシュパート)はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない(59章9、14節)」という闇の中にありました。

さらに主は、彼らを見て、ひとりも執り成す者の無い有様に驚かれます。それは「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(マルコ6章34節)」という、あの5千人の給食のときの人々の状態と、同じです。

しかし主は、ご自身自らが立ちあがり、「恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい」人のその業に従って報いると言われます。それは主の御業と栄光が現わされ、こうして「主は贖うものとして」罪を悔いる者のところに来られるのです。

アドベントです。わたしたちは「恵みの御業を鎧としてまとわれ」「贖うもの」として来られた主イエスをこころから待ち望みましょう。

前回 目次へ 次回