基督はわたしたちの平和

牧師 原田史郎

エフェソの信徒への手紙2章14~18節

 

 毎年、8月の第1週は「平和聖日」礼拝です。1945年8月6日に広島に原爆が投下され、続いて長崎、そして15日に敗戦の日を迎えました。15年戦争以来続いた太平洋戦争は、日本のみならず、交戦国の人々に多くの犠牲と悲惨をもたらしました。わたしたちは、二度と、このような悲惨な戦争をしないために、決意と祈りを込めて、「平和聖日」の礼拝を守るのです。

 「キリストはわたしたちの平和です」と、聖書は告げます。キリストは、御自分の命を犠牲にして、十字架によって、敵意を滅ぼし、人々の間にある「敵意という隔ての壁」を取り除いてくださいました。そして「ひとりの新しい人を造り上げて平和を実現」してくださったのです。

 だが、この平和が備えられているのにも関わらず、わたしたちの間に、敵意の壁を再生し、命を軽んずる発想が起きてくるのです。『教団新報』(8月3日号)は、教団議長が教会に向けての「平和のメッセージ」を掲載しました。その中で、「原発推進政策」「領土問題をめぐる緊張」「憲法の改定」の三つを、今の危機として挙げています。そこには 「このような時代であるからこそ、ひとりひとりの命こそ何よりも大切である、ということ」、そして「命を犠牲にしてまでの発電方法はありえませんし、命を危うくしてまで守る領土はありません」と訴えます。

『信徒の友』(8月号)に森本あんり師(国際基督教大学副学長)が「平和を求める日本の決意」と題した評論を書いています。日本国憲法には、あの悲惨な戦争で命を失った幾千万の戦没者の鎮魂を願う「祈りの書」だという元最高裁判事の話が紹介されています。法律にふさわしくない「念願する」「信ずる」「誓う」といった言葉がでてくるのも、そこに思いと祈りが込められているからだと思います。新たなる想いをもって平和への祈りを強くしましょう。

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