「イエスの名によって立ち上がれ」

(6月22日の説教から)

牧師  原田史郎

使徒言行録3章1~10節

 

 ペトロとヨハネが、午後3時の祈りのときに神殿に上って行くと「美しい門」の前に、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ました。彼は二人を見て施しを乞います。するとペトロたちは「彼をじっと見て「わたしたちを見なさい」と言い」ました。

 キリストに出会うとき、それはしばしばキリストの証人に出会うことから、始まります。 「わたしたちを見なさい」と、わたしたちはなかなか言えません。でも、わたしたちの人間性や外側を見せるのではなく、罪びとであるわたしたちのようなものでも、キリストに愛され、救われたという恵みを証しすればよいのです。ある新聞に「沖縄戦の記憶」という記事がありました。そこに一人の皺だらけの手が、沖縄戦犠牲者の名前が刻まれている平和の礎(いしじ)の名前をいとおしげに触れている写真が添えられていました。礎に刻まれている名前は、その手の人の愛する家族か誰かなのでしょう。キリストの証人ということは、力が衰えて皺だらけの手でも、その手が指し示す対象としてのキリストが大切なのです。

 「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」 ペトロが手を取って立ち上がらせると、その人は「躍りあがって立ち、歩きだしました」 キリストの名によって歩むとき、どんな人にも再生のチャンスがあるのです。

 

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