今こそ、その時 (1月4日の説教から) 牧師 原田 史郎 ルカによる福音書2章22~35節 この聖書は、ラテン語で「ヌンク・ディミティス」(今こそ、主は)とよばれ、降誕節第1礼拝によく読まれる箇所です。イエスの両親は、幼子を主に献げるために、エルサレムに連れて行きますと、そこにシメオンという老人がいました。この人は「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」信仰のあつい人です。彼は、霊に導かれて神殿の境内に入ってきたとき、いけにえを献げる両親と幼子イエスに出会ったのです。 シメオンは幼子を抱き、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と神を賛美します。この初めの言葉は、聖書の原語では「今こそ、あなたはわたしを救い、解放してくださった」と訳せる順序になっています。シメオンは「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と確信したのです。 シメオンが「今こそ、主は」と、メシアの訪れを知ったのは、彼に聖霊が宿り、彼もまた聖霊の導きと促しに従う人であったからでした。この地上には、いろいろなタイプの様々な状態の人たちがいます。しかし霊的に見れば、どんなタイプや状態であれ、聖霊に導かれて歩む人と、そうではなく自分の肉に従って歩む人のどちらかでしかありません。聖霊の導きと促しを大切にする人は「今こそ、その時」を知ることが出来るのです。 また彼は救いの実現を待ち望む人でありました。待ち望むということは、忍耐深く、祈りつつ待つということです。それはどんなときにも失望しないで、神さまのみ心を信じて歩むことでもあります。わたしたちも、この新しい年を聖霊に導かれるキリスト者として、神さまのご計画と約束を信頼して歩みを始めたいものです。 |