「キリストは命の門」 (8月28日の説教から) 牧師 原田 史郎 ヨハネによる福音書10章1~10節 主イエスは、ここで、二通りのたとえでご自身を言い表しました。ひとつは「わたしは羊の門である」であり、もうひとつは「わたしは良い羊飼いである」です。この二つは互いに連動し、一つの真理を現しています。 イスラエルの羊は、夜になると石や灌木で作られた柵に帰ってきます。入口の門には、不寝番を兼ねて門番がついていました。朝になって門番が門を開きますと、羊飼いは中に入り、「自分の羊の名を呼んで連れ」出します。 ルカによる福音書15章で、主イエスが失われた羊の話をされたときがあります(1~8節)。100匹のうちの1匹が失われたとき、わたしたちならどうするでしょうか。多分、何回も1、2、3、と数えて確認するにしても、それは100分の1の羊1匹がいなくなったという認識ではないでしょうか。 しかし、羊飼いはそのような数え方はしません。それぞれの羊の名を呼んで、1匹ずつ確かめるのです。「ゼーン・耳に特徴」「アーク・鼻が目立つ」「ハザーク・賢い子」「ハトト・ビックリやさん」「エーム・お母さん」。そして、「ハトトがいない。何かに怯えて、岩陰に隠れて見失ったのかもしれない」と気付くのです。 「良い羊飼いである」ある主イエスは、わたしたち一人一人の名前を呼んで呼びかけてくださるお方です。そして羊飼いが「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」ように、わたしたちもこの主の後について行くのです。 そしてもうひとつ大切なことは、「羊はその声を知っている」とあるように、わたしたちを救い主の導きの声を聞き分けなければなりません。だれの声が命に導き、だれが破滅への甘い誘いを囁いているのか「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり(フィリピの信徒への手紙1章9~11節)」と祈ったパウロのように主に従うのです。 |