「来年は実がなるかも知れず」 12月25日(日) 牧師 原田史郎 ルカによる福音書13章1~9節 「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」。いちじくの木が、ぶどう園に植えられると、葉が繁ったときには、その分、ぶどうの木の敷地が狭められます。それにも拘わらずその木が植えられたのは、たった一つの目的、実を得るためでした。 だが、その実は探しても「見つからなかった」のです。見つける喜びがあります。羊飼いは、迷子の1匹の羊を「見つけたら喜んでその羊を担いで、家に帰り」近所や友人たちを集めて「見つけたので、一緒に喜んでください(ルカによる福音書15章5~6節)」と言うであろう、と主は話されました。それだけに、探しても実を見いだせなかったぶどう園の主人の失望はいかに大きいものだったか想像出来ます。 そこで主人は「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と、園丁に言いました。 いちじくの木はぶどうの木と共に、しばしばイスラエルを表しています。 「ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない(エレミヤ書8章13節)」と、預言者は、背信のイスラエルについて語りました。このいちじくの木は、実を結ばない神の民の姿であり、それは、先行して主が話された(ルカによる福音書13章1~5節)、悔い改めないわたしたちの姿でもあるのです。 しかし、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」と答えました。猶予期間はすでに来ていて、主の終わりが来ているのにも拘わらず、主イエスの執り成しのお姿がここにあります。園丁の嘆願の中に、神さまの忍耐と憐れみがわたしたちに注がれているのです。 |