「洗礼は最高の祝福」

1月8日(日)

牧師 原田史郎

マタイによる福音書3章13~17節

イエスは、ヨルダン川のヨハネのところへ来られ、洗礼を受けることを求めました。だがヨハネは、主が罪なき方であり、またこの方は「聖霊と火による洗礼」を授けるであろうと預言していました。ヨハネは思い止まらせようとしますが、主は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われます。この「正しいこと(デカイオスネー)」は、山上の説教(5章6、10節)で「義」と訳されている言葉です。洗礼によって、主が罪びとと結びつき、十字架への道を歩まれ、その贖いによって罪の救いが全うされ、神の義が成就するのです。いと高き聖なるお方が低くなり、わたしたちのところに来たりたもうとき、その方の聖性によって、低いものは引き上げられ高くされるのです。

 主が洗礼を受けられると「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのを御覧になった」のでした。「メシア(ギリシャ語ではキリスト)」は、「油注がれた者」という意味です。かつてダビデは、サムエルから将来の王としての油を注がれると「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった(サムエル記上16章13節)」とあります。イエスの上に聖霊が降ったことは、イエスがメシアであることを宣言されたことに等しいのです。さらに詩編2篇7節、イザヤ書42章1節等の内容を引用した「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響いて来ました。神の霊が注がれたとき、イエスと父なる神との結びつきは、一層深く強固なものとなりました。

 わたしたちの洗礼は「キリストに合うバプテスマ(ガラテヤの信徒への手紙3章27節・口語訳)」と呼ばれます。これによって主と固く結ばれて神の子とされ、約束による相続人とされたのです。この信仰に歩みましょう。

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