「救いの約束」

11月19日 牧師 原田史郎

出エジプト記6章2~13節

 「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である』」それは、モーセが知らなかった神の名の新しい啓示です。「わたしは主である(アニー・ヤハウエ)」とは、今までアブラハムなど族長たちに「全能の神(エール・シャダイ)」(創世記171節)とだけしかご自身を現わしておられなかった神が、今、その「名」を明らかにされたのです。それは、神の御業の新しい始まりであります。

 神は、奴隷の民の苦しみの声を聞き「わたしの契約を思い起こした」と言われ、また「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」と宣言されます。神の救いである贖いが、困窮の真っただ中に始まり、起ころうとしているのです。

 1963918日、M・Lキング牧師は、パーミングハム市で起こったダイナマイトによるテロで亡くなった4人の少女の葬儀でこう説教しました。「歴史は繰り返し、不当に受ける苦難には贖罪(あがない)の力のあることを証明しています。この小さな子どもたちの死は、非人間的な低い道から、平和と兄弟愛の高い道へと導いてくれるかも知れないのです」 無辜(こ)の幼い少女たちが爆死するという最も悲惨な事件の中で悲嘆と絶望にあった人たちに、キング牧師が見ていたものは、人間の深い罪は、潔い無辜の犠牲によってしか贖うことは出来ないという聖書の使信でした。キリストによる十字架の贖いによって、わたしたちの罪の赦しと救いが成就したと聖書は語っています。困窮と苦しみの中にある民に、神は、贖いの力を発揮されます。救いの業が神の御名の顕現と共に始まったのです。

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