高い山から下りて来られたキリスト

7月22日

牧師  梁 在哲  

マルコによる福音書 9章14~29節

 主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ8:31)その後主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。そこで主イエスのお姿は彼らの目の前で変わり、「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」(9:3)

 主イエスは高い山の輝かしい栄光を捨てられて私たちが住んでいる低い山の下に降りて来られて、しかも私たちの罪のために御自ら十字架の道へ進まれて、罪の奴隷となっていた私たちに、二度と罪の奴隷にならないようにご自分を身代金として十字架の上で支払われた。主イエスの十字架の血潮によって罪の奴隷から解き放たれた私たちも、悪霊に取りつかれていた息子のようにぐったりして、死んだ者のように見られるかも知れないが、しかし主イエスは御手を伸ばされて、私たちを起こされて両足で立ち上がるようにしてくださる。何故ならば、復活なさった主イエスの御手は今も、私たちが父なる神の御前で正しい者として両足で立ち上がるように起こされて、また私たちの義のために執り成しの祈りをお捧げになるからである。

ペトロとヨハネ、ヤコブは高い山で輝かしい栄光に満ちた主イエスの変貌のお姿を目の当たりしたが、山の麓に下りて来て恐ろしい悪霊の仕業と、群衆に取り囲まれて混乱に陥っている仲間たちの様子をも目の当たりした。山の麓に残されていた弟子たちは、悪霊を追い払おうとしたが、結局失敗したからである。後に彼らは主イエスにその失敗の理由を密かに尋ねたが、主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ。」と、お答えになった。いつのまにか、弟子たちにおごりや油断した心が潜んでいたかも知れないが、彼らは主イエスに寄らなければならない時、祈らなければならないその時、祈らなかったのである。

私たちが悩みや困難のゆえに、希望を見失おうとしている時こそ、祈らなければならい時であり、落ち込んで諦めたくなる時こそ、主イエスを仰ぎ見る力を与えられるように祈らなければならない時である。主イエスは栄光に満ち溢れる変貌の山からこの地上に下りて来られて、悪霊に取りつかれていた息子と共に苦しんでいた父親をお助け下さり、汚れた霊を追い払われて、弟子たちに確かな信仰と祈りの模範をお示しになった。私たちは主イエス・キリストの模範に倣って、自分の足りない信仰をお助けくださり、希望を失おうとしている兄弟姉妹に主イエス・キリストを仰ぎ見る力をお与えくださるように、折を得ても得なくても執り成しの祈りを捧げつつ、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む群れになりたいと切に願うのである。

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