キリストの名 7月29日 牧師 梁 在哲
マルコによる福音書
9章38~41節 主イエスが愛弟子たちを偏って愛された訳ではないがゼベダイの子ヨハネとヤコブ兄弟とペトロの3人はいつも大事な時、主イエスと共にその場にいた。その中でヨハネは最近起きたある出来事を主イエスに告げたがそれは「イエスの名」を使って悪霊を追い払うある者を見つけて弟子たちは皆、そのような行為を中止するように命じたと、いうものであった。主イエスより選ばれて従う者ではないことが拒んだ主な理由であった。皮肉なことに悪霊を追い払う権能を主イエスより授けられた弟子たちはつい最近、悪霊を追い払えない失敗を味わったのにあの者は確かに悪霊を追い払ったのである。弟子たちは皆、神経を尖らしていて自分たちだけが主イエスの権能を独り占めにしているのだと、思い込み悪霊に取りつかれて苦しんでいる者を助けることより自分の面子だけに関心を寄せていたのである。 しかし、主イエスは「誰もご自分の名によって悪霊を追い払った後、公にご自分に逆らう者はいない」と言われた。その動機が何であれ、あの者は少なくとも悪霊に取りつかれていた者に慈しみを施してサタンに立ち向かったからである。使徒パウロもローマの牢屋の中でとにかく、「キリストの名」が告げ知らされているのなら、その動機が妬みや争いの念であれ、福音が前進しているのだから自分は喜んでいるし、これからも喜ぶのだと、フィリピの教会の人々に証した。(フィリピ1:15、18)主イエスご自身「悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と言った非難を受けられた際、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。サタンが内輪もめして争えば立ち行かず、滅びでしまう」(3:22‐26)と言われてご自分の名を無断で借りて悪霊を追い出したあの者はご自分に逆らわない者だから味方であると、言われた。 ところが、後に弟子たちは味方にさえなれなくて「主イエスが引き渡される夜」ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら「あなたがたの言っているそんな人は知らない、と誓い始めた。」(14:71)彼らは誰よりも多く主イエスの名を用いて、また自分たちこそ主イエスの名を使うのに相応しい者だとうぬぼれていたが、主イエスの名を知らないと、言ってしまったのである。しかし、主イエスは無断でご自分の名を使い、悪霊を追い払った者も、また主イエスの名を知らないと罵りながら裏切ったペトロをもお赦しになった。「キリストの名」は悪霊を追い払う力だけではなく「逆らう者、裏切り者、呪う者」の罪をもお赦しになる十字架の力、そして私たちを「義」とさせられるご復活の力、神の御前で正しい者として立ち上がらせてくださる力である。 「キリストの名」は、その名を呼び求める者たちを捕らえて滅ぼしていた、サウロをお赦しになる「十字架の力」であり、バルナバとアナニアを通して「キリストの名」を伝えるために御自らお選びになった器としてパウロを立ち上がらせてくださる「ご復活の力」である。(使徒言行録9:14-15、21、11:26) 主イエスはご自分の名を受け入れる者は必ず報いを受けると言われたが、真の報いは良い行いや功によるものではなくて、御父が御子の名-「キリストの名」-によってお遣わしになる弁護者-聖霊-の御助け(ヨハネ14:26)によって私たちの名が天の国の「命の書」に書き記される喜びである。私たちは「キリストの名」によって赦されて、また立ち上がらせてくださった者として「キリストの名」が告げ知らされる「福音の前進」の喜びと、私たちの名が天の国の「命の書」に書き記される喜びを切に願うのである。 |