聖霊による喜び

6月16日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書10章17~24節

72人の弟子たちを派遣される主イエスの心境は「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」(3節)であった。彼らは「喜んで帰って来て主よ、 お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)と、報告した。そもそも、サタンは「光の天使」が堕落したものであるゆえに主イエスはご自身が、既に預言された通り(マルコ16:17~18)サタンは福音伝道によって稲妻のように天から落ち、屈服することを明らかにされた(18~19節)。しかし、主イエスは永遠の命を授けられ、その名が天に書き記されることこそ、最も大事な勝利であり、喜びであることを言われた(20節)。何故ならばイスカリオテのユダさえも、悪霊を追い払ったからである。 

『そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知惠ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした」』(21節)。よちよち歩く幼子を水辺に送り込むような心境で弟子たちを派遣された主イエスは、真理を拒む者にはそれを隠し、知恵もなければ知識もない幼子のような弟子たちにそれを明らかにされる父なる神をほめたたえ、それこそ御心に適うことに聖霊によって非常に喜ばれた。使徒パウロも誰一人、神の御前で誇ることがないようにこう証した。「ところが、神は知惠ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました」(コリントⅠ 1:27)、と。

それから主イエスは、ご自分の願い通り、父なる神の秘密が幼子のような弟子たちに明らかにされた驚くべき祝福を静かに確認してくださった(22~23節)。御子イエスが人間になられた最も大きな奇跡を目撃した弟子たちの目は、正に祝福されたものであるからであった。数多くの預言者や王は神の民として祝福された。しかし、幼子のような弟子たちは、主イエスと共に歩んで、話し合い、奇跡を目撃し、その歩みを見届けて、キリストの死とご復活を経験したゆえに彼らの目は幸いなものとなったのである。

我々はこの地上で昔、弟子たちのように主イエスと共に歩むことは出来ない。しかし、我々には聖霊によって成就された預言の記録と主イエスについて証している福音書が与えられている。そして我々の歩みを満たしてくださり、福音の真理を証してくださる聖霊が与えられているゆえに我々も幸いなものではないだろうか。三位一体主日礼拝において我々は、永遠の命を授けられた父なる神、十字架と復活を通して永遠の命に至る一筋の道を開いてくださった御子なるイエス、その永遠の命を保証してくださる聖霊なる、三位一体の神のために生きることを心より喜び、それに相応しく整えてくださるように切に願うのである。

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