見よ、神の小羊だ

1月12日の説教

牧師 梁 在哲

イザヤ書42章1~9節   ヨハネによる福音書1章29~34節

 預言者マラキは、主の日が来る前に、預言者エリヤがキリストの先駆者として遣わされ(マラキ3:23)、父の心を子に、子の心を父に向けさせる(:24)と、預言した。その預言は、洗礼者ヨハネが産まれる前、父ザカリアに臨んだ天使のお告げにおいて成就された。ヨハネの使命は悔い改めの水の洗礼で、来られるメシアの道を備えることであった。彼はその使命のために生まれ(ルカ1:17)、群衆に向かって自分が目撃したことを証し続けた。その時、主イエスは既に洗礼者ヨハネから洗礼を受けられていた。ヨハネは、ナザレのイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫んだ(ヨハネ1:29)。それはヨハネの感激の証しであり、信仰告白であった。当時、イスラエルでは羊に自分たちの罪を背負わせて、荒れ野に追い払う贖罪の儀式があった。

 預言者イザヤも、「苦難の神の小羊」として来られるメシアを預言し(イザヤ53:68)、来られるキリストは、人間が備えた羊ではなく、世の罪を背負わせ、取り除くために父なる神ご自身が用意してくださった「神の小羊」であった。ところが、ヨハネ自身も他の民衆と同じようにメシアであるナザレのイエスに気づかなかった(31)。イエスを救い主、メシアとして知る道は聖霊のお働きしかない。ペトロもパウロも、誰も聖霊によらなければ、イエスは主であるとは、言えない(コリント1 12:)。ヨハネは「聖霊がイエスの上に鳩のように降ること」(32)を目撃し、この方こそ、聖霊で洗礼を授けられる「神の子」である(33~34節)と証した。聖霊による洗礼は、神の御前で私たちを聖なる者として生まれ変わるようにしてくださり(コリントⅡ5:17)、私たちはキリストのお体の一部となるのである(コリントⅠ 12:27)

 ヨハネは、主イエスが「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3:16)と証した。洗礼は「清められる」ことであるが、何故熱い火をもって清められるのであろうか。それは、道徳的な熱意が清めることができるが、情熱のない心は清められないからである。それゆえ、主イエスは、聖霊と火で洗礼を授けられ、熱意と情熱を私たちの心に注いでくださる。ヨハネは「聖霊がイエスの上に鳩のように降ること」を目撃し、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫んだ。彼は声を張り上げて自分の目で見たことを叫び、伝えた。議会の取り調べを受けたペトロとヨハネも聖霊に満たされて、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒4:20)と答えた。自分が見たことや聞いたことを伝えない者は、従順な主の僕とは言えない。新しい年のはじめに私たちは、聖霊の御助けに依り頼み、自分が見て聞いた「神の小羊」、イエス・キリストを宣べ伝え続ける忠実な主の僕になりたいと願う。

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