恵みと真理の主

1月5日の説教

牧師 梁 在哲

イザヤ書40章25~31節    ヨハネによる福音書1章14~18節

主イエスがお生まれになった当時のイスラエルは、今日の世界よりもっと危険なところであった。ヘロデ王は東方の博士たちが戻って来なかったので2歳以下の男の子を全て殺してしまった。彼は自分の権力を独り占めするため幼子を平気で殺す無慈悲な人物であった。当時の社会がどれほど厳しいものであったか、推し測ることができるのではなかろうか。もう一人のヘロデ王も自分の不道徳的な罪を指摘した洗礼者ヨハネを無残に処刑してしまった。自分の権力を脅かすような敵ではなかったのに、ヘロデは、ヨハネを何の良心の呵責もなく、殺してしまった。そのような王が治める国が当時のイスラエルであった。ローマ総督も例外ではなかった。力ある者の無慈悲な暴力が踊り狂う、偽りがはびこっている社会であった。嘘をつき欺くことは日常茶飯事で、誠実と真実は見当たらない社会であった。

そのような無慈悲な世界で涙とため息で暮らしていた人々を、父なる神は、憐れんでくださり、ご自分のひとり子を世にお遣わしになった。父なる神は、非情な世界で不安に生きている人々にご自分のふところにいる、最も愛されるひとり子をお遣わしになった(ヨハネ1:18)。私たち人間を罪と死から解き放ってくださるために、御子は大工の子として、馬小屋でお生まれになった。これこそ、驚くべき父なる神の愛であり、恵みではないだろうか。福音書の記者はこう証した。父なる神の御子が人間としてこの世に来られた時、非情な世界に「恵みと真理」が訪れ、水が海を覆っているように世に広がったと(14節)。父なる神は、天地創造の前に私たちを愛して、ご自分の聖なる者と子にしょうと、御子においてお選びになった。何故なら、父なる神は、御子によって与えられた輝かしい恵みを私たちが褒め称えるよう願われたからである(エフェソ1:4~6)。

父なる神は、ご自分の民に約束してくださったことを真実に守ってくださる。使徒パウロも「真実の神」をこう証した。あなたがたをお招きになった平和の神は、真実で必ずあなたがたを全く聖なる者としてくださると(テサロニケⅠ 5:23~24)。それゆえ、偽りと欺きに満ちていた世界は、「主の恵みと真理」に満たされる。しかし、恵みだけあって真理がなければ、秩序は乱れ、混乱に陥る。また、真理のみで、恵みがなければ冷たくなる。それゆえ、「恵みと真理」は両方つりあいを取らねばならない。主イエスを信じる以前は、私たちの中に「恵みと真理」はなかった。しかし、イエスを救い主として信じ、受け入れるようになる時、私たちは「真理と恵みの主」を仰ぐことを許され、追い求めるようになる。主イエスがいなければ、教会の中に、また地域社会に、まことの「恵みと真理」はいなくなる。新しい年のはじめに「主の恵みと真理」が、教会と家庭にまた地域に、水が海を覆っているように満たされるように切に願う。

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