目を覚ましていなさい

10月17日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書33章17~22節   マタイによる福音書25章1~13節

イエスは、世の終りの時、現われる徴について言われた後、婚礼式のため新婦の家に来る花婿を迎えに出る十人の新婦の友たちの例えを挙げられた(マタイ25:1)。そのうちの愚かな五人の乙女たちは、ともし火を持っていたが、油の用意をしていなかった。一方、賢い五人の乙女たちは、それぞれのともし火と一緖に、壺に油を入れて持っていた(3~4節)。乙女たちの姿は、それぞれ、ともし火と共に聖霊に満たされた心の壺を携え、主が再び来られる日に備えている者と、そうではない者の姿を表している。宗教改革者カルヴァンは、「天の国の扉は、準備しなかった全ての者に閉められる」と述べた。その扉が開いている間には、愚かな乙女たちは、扉の前に立たされる悲しみが如何に大きなものであるかを推し測れなかった。その扉は、一瞬にして、永遠に閉められ、彼女たちは、追い払われた。その後で、彼女たちは、必死に願い求めても、それは、遅すぎて、時に適うことではなかった(11~12節)。そこでイエスは、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われた(13節)。

「目を覚ます」とは、ギリシア語で「グレゴレイテ」と言われ、その語源を遡ると「エゲイロ」が原型である。それは、寝ている者や座っている者、また罠に陥っている者を起こし、病んでいる者を癒し、死んだ者を生き返らせ、暗闇の力に対抗して起きる意味をもっている。ところが、後にイエスがゲッセマネで祈られる時、弟子たちは、終りの日に備えて祈るどころか、主の十字架の苦しみの前に居眠りしていた。そこでイエスはペトロに、「目を覚まして(グレゴレイテ)祈っていなさい。心は燃えても肉体は弱い」と戒め(マタイ26:41)、また再び来られて、寝ている弟子たちに「立て、(エゲイレステ:エゲイロ)行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われた(46節)。イエスは弟子たちに目を覚まし、サタンの力に対抗して起きるように命じられた。「父なる神」は、わたしたちの心の壺にある「聖霊」を通して光を灯し、新しい信仰の目で「御子イエス」を見えるようにしてくださる。それゆえ、わたしたちは、主が再び来られるまで、聖霊に満たされるよう目を覚まして祈らねばならない。そして、寝ている者や罠に陥って躓いている者を起こし、病んでいる者を癒し、霊的に死んでいる者を生き返らせ、暗闇の力に対抗して起きる者でありたいと願う。

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