主にある喜びの交わり 5月15日の説教 梁在哲牧師 出エジプト記19章1~6節 ヨハネによる福音書15章1~11節 葡萄の木、旧約では乏しい実を結んだゆえに、神より厳しく責められるイスラエルの民に例えられた。ヨハネによる福音書では、キリストを頭とする教会に例えている。まことの葡萄の木である御子が豊かな実を結ぶように、農夫でおられる御父は、手入れをなさる(ヨハネ15:1~2)。それは、真実な僕が清くなるように御自らの御言葉をもって備えてくださる厳しい訓練である(3節)。主は弟子たちの足を洗われる際、同じことを言われた(ヨハネ13:10)。使徒パウロも御言葉をもって清めてくださる主を証した(エフェソ5:26)。そして主は、豊かな実を結ぶためにその枝は、しっかりと木につながっていなければならいと言われた(4~5節)。「つながる」ことは、キリストとキリストを信じる者との「命の関係」を明らかにする「交わり」に他ならない。その実は信仰から離れた単なる良い人柄や良い業によるものではなく、キリストにしっかりつながる交わりにおいて与えられるものである。その交わりは、キリストと私のつながりが明確になっている人格的な関係であり、生きる力の源である。しかし、真理を悟り、仏になることは、無に帰ることであるがゆえに、仏教には「私とあなたとの結び合せによって実を結ぶ」と言った人格的な関係は、見当たらない。 主は、御言葉に相応しい祈りは、こだまのようにかなえられ、豊かな実を結び、御父は喜ばれ、栄光をお受けになると言われた(7~8節)。また、御父の愛は、御子へ、御子の愛は、信じる者へ流れるゆえに、自分の愛にとどまるためには、自分の掟を守るように命じられた(9~10節)。そして「新しい愛の掟」によって自分の完全な喜びが弟子たちに満たされるように願っておられた(11節)。使徒ヨハネは、私たちの交わりは、御父と御子との交わりであるゆえに、御父の喜びは、御子へ、御子の喜びは、私たちに満ち溢れるようになると、証した(ヨハネ手紙Ⅰ1:3~4)。神は、人間との交わりを願っておられ、ご自分にかたどって人間を創造された(創世記2:7)。ところが、人間は、罪を犯し、神との交わりは勿論、人間同士の交わりも途絶えられた。しかし、神は御子を世にお遣わしになり、御子の十字架と復活を通して断たれた交わりを回復させられた。私たちは、真実な神によって御子との交わりに招き入れられ、その交わりが回復される教会の中に呼び集められる(コリントⅠ1:9)。たとえ、私どもの交わりが、「罪人の交わり」として世のものと少しも変わらないように見えても、「主にある喜びの交わり」であると信じることを許された者として御言葉の解き明かしと共に聖餐式ごとに「聖徒の交わり」を唱え続けたいと願う。 |