聖霊に導かれる弟子たち

5月22日の説教

梁在哲牧師

 

創世記18章23~33節    ヨハネによる福音書16章1~15節

主イエスは、「世は弟子たちを迫害するが、弁護者なる聖霊は、ご約束の通り来られる」と言われた(ヨハネ16:1~7)。しかし、聖霊が来られるまで弟子たちは、それらのことを理解できないと、主は言われた(12節)。重量挙げの選手は、日々こつこつウェ-ト・トレーニングに励まねばならない。そのように聖霊のお働きがなければ、その重荷を負うことはできず、聖霊を受けていない心では、主が言われるその神秘は、手に負えないからである。後に使徒たちが聖霊に導かれて書き記した福音書や手紙こそ、主の秘められた真理を明らかにしている。そして主は、弁護者なる聖霊が来れば、罪と義と裁きについて世の誤りを明らかにし、真理の霊なる聖霊は、弟子たちをも全ての真理の中に導き、その働きを通してご自身栄光をお受けになると言われた(8~14節)。聖霊は、「道であり、真理であり、命である御子」に弟子たちを導き、自分勝手に語らず、御父より聞いたことを言い、御子が再び来られることを告げるからである(13節)。聖霊の働きは、強引なやり方ではなく、言葉に言い表せない呻きをもって執り成してくださるゆえに、その導きがなければ主の真理を悟ることはできない。

聖霊は、御子を超えて働くことなく、「御父が御心のままに満ち溢れるものを余すところなく御子の内に宿らせたもの」を御子より受け、弟子たちに告げる(コロサイ1:19・ヨハネ16:15)。初代教会においてそのお告げは、使徒たちの驚くべき宣言であり、聖霊の働きに他ならない。生命を生み出し、支え、保つ不思議な生命現象や力について諸宗教、殊に仏教では、人間の生老病死を通して追い求める。しかし、聖書はその力について「神の霊」として、また命を注ぎ込む「神の息」として語り続ける。父なる神は、御子と共に聖霊を通して私たちの心の深みの内におられる(コリントⅠ6:19)。聖霊御自ら、人格的な存在として塵芥から成る人間に関わってくださるゆえに、人間は自由な応答をもって御子において御父に従う人格となることを許される。聖霊に導かれる弟子たちのように、弱い者は強められ、排除される者は受け入れられ、無力な者は立ち上がらされる。私たちも聖霊なる神に導かれ、頑なな心を父なる神の愛に満たされ、御子なる神の再臨を待ち望む私どもの教会も「復活の共同体」として日々、新しくされるように切に祈る。

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