奇跡を行うキリスト

2月11日説教

梁在哲牧師

 

申命記8章1節~6節    ヨハネによる福音書6章1節~15節  

イエスは病人たちを癒してくださった後、過越祭が近づいていた頃、ガリラヤ湖の向こう岸に渡られたが、大勢の群衆が後を追った。主は山に登り、弟子たちと一緖にそこにお座りになった(ヨハネ6:1~4)。そこで目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポを試みるために『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われた。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた(ヨハネ6:5~7)。ところが、イエスの試みは人の信仰が鍛えられ、万事が益になるためであり、主なる神は、40年の荒れ野の旅でご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとイスラエルの民を試した(申命記8:2)。しかし、サタンの試みは、いつも人を殺し、危害を加えるためのものである。そして我々人間が、むしろ主なる神を試し続けて来た。詩編の記者は、荒れ野でイスラエルの先祖は、モーセを通して盤石から湧水を頂いたのに不従順な彼らは、むしろ主なる神を試したと嘆いた(詩編95:8~9)。 

「この人たちに食べさせるには、どこからパンが出て来るのか」と問われるイエスにフィリポは、パンを買うためのお金だけに気をとらわれ、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。一方、どこからパンが出て来るのかを知らなかったアンデレは、その場である少年が持っていた五つのパンと二匹の魚が「こんなに大勢の人では、何の役に立たないでしょう」と思いながらもイエスに報告した(ヨハネ6:8~9)。しかし、イエスは、「何の役に立たない」と決めつけられた「五つのパンと二匹の魚」に目を留めてくださった。しかし、そのように何の役に立たないと決めつけられた五つのパンと二匹の魚が、主イエスに捧げられた時、5千人を超える大勢の人々を満腹させ、残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになるほど豊かなものとなった(ヨハネ6:10~13)。

本日は、明治憲法に基づき、1873年2月11日制定された「紀元節」が1948年廃止され、1966年同じ日に「建国記念日」として再制定されたことがきっかけで宗派や教団を超えて「信教の自由を守る日」として守り続けて来た。この日は、誰一人、役に立たないと決めつけられる人は、いないゆえに、そしてパンと魚を共に食べる権利、人間の尊厳と命を守り続けるために「何の役に立たない」と、決めつけてしまうような乱暴な判断を断じて拒否する信仰的な決断を改めて堅くする日である。奇跡を行うキリストは、「何の役に立たない」と決めつけられた「五つのパンと二匹の魚」を豊かなものにしてくださった。そして人々より愚かなものやつまずかせるものとされ、何の役に立たないとされたご自分の十字架を通して我々に永遠の命の豊かな恵みをお与えになられた。この世から何の役に立たないと決めつけられて来た主イエス・キリストの十字架を通して現われる復活の命の豊かな恵みを聖霊の御助けによって覚えつつ、受難節を迎えたいと祈り、願う。

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