荒れ野の誘惑

2月18日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記17章3節~6節  マタイによる福音書4章1節~11節

主イエスが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた40日間は、イスラエルの民がエジプトから導かれ、荒れ野を彷徨った40年間の年月を表わしている。イスラエルの民は、エジプトの国から解放され、ただちに約束の地に辿り着いた訳ではなく、迂回を重ね、世代を超える苦しい長旅を続け、その苦しい長旅を通して、主なる神と信頼を深めることを許されたからである。その意味において主イエスの荒れ野での40日間は、父なる神に信頼を寄せられつつ、これからの福音宣教の礎となる時であった。それゆえ、我々もこのレントの40日間、聖霊の御助けを求めつつ、御子イエスの荒れ野での誘惑と苦しみを覚え、父なる神への信頼をもっと深めたい。

イエスは、40日間昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた(マタイ4:2)。それは、イスラエルの民が食べ物の欲しさのあまり、エジプトの国に引き返して肉の鍋を食べたいとモーセに不平を述べ立てる様子を連想させる。彼らは絶えずモ-セと争い、主なる神を試した(出エジプト16:1~3、17:6~7)。最初、サタンは「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言いながら、空腹を満たすためにありふれた石をパンに変えて食べなさいとイエスを誘惑した(マタイ4:3)。ところが、それは麦粉をもってパンを作ることではなくて、石をパンに変えるような手に届く物を手っ取り早く変えさせる力によって物を手に入れることであった。

サタンは、昔も今も常に正しい方法ではないやり方で物を得ようとする我々の欲望を煽り、唆している。しかし、主イエスは、サタンの誘惑に断固たるお声で、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えられた(マタイ4:4)。それは、神の口から出る一つ一つの言葉へ立ち返りなさいと言われる主イエスの福音伝道の第一声ではなかろうか。次にサタンは、イエスが見栄を張るように、「神の子なら、神殿の屋根の端で飛び降りたらどうだ」と誘惑する上で、「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあると聖書の御言葉を用いた(マタイ4:5~6)。それは、戦争や疫病から救ってくださる主なる神の守りと救いを褒め称えた詩編の箇所であった(詩編91:11~12)。

今日、世界は、未だにも空腹を満たす食べる問題に直面している。その中で我々は、石をパンに変える力のように手に届く物を手っ取り早く変えさせる力に依り頼り勝ちになると思われる。しかし、特定の人物、或いは集団や国、また人工知能(AI)のようなその力は、人々が近づき、媚を売ろうとする危険性をも孕んでいるのではなかろうか。この受難節の時、我々は、聖霊の御助けによって絶えず信仰の仲間たちと争い、主を試す罪を悔い改め、石をパンに変えるような力で物を得ようとする誘惑から救われるように祈る。そして御子イエス・キリストが荒れ野で受けられた誘惑と十字架の苦しみを覚えつつ、父なる神に信頼を深めたいと願う。

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