既に世に勝っている主

5月5日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記33章7~11節  ヨハネによる福音書16章25~33節

主イエスは、不安に陥っている弟子たちに慰めと平安をお与え、また父の御もとから聖霊を送ってくださると約束のお言葉を語られた。主は、御子は、父なる神よりこの世に人間として遣わされ、十字架で死なれ、よみがえられ、天に昇られ、父なる神のもとに行くと言われた(ヨハネ16:28)。そこで、弟子たちの疑いは、解けて彼らの言葉は、「分かりました」から「信じます」に変わり、信仰を告白した(16:29~30)。それは、以前、ニコデモが夜こっそりイエスを訪ねて口にした告白と同じものであった(ヨハネ3:2)。しかし、弟子たちの信仰告白は、完全なものではなかった。それゆえ、主はあなたたちが今は勢いよく、信仰告白を口にしているが、裏切り、散らされる試練が待ち受けていると悲しい預言を言われた(16:32)。

彼らの姿は、荒れ野でのイスラエルの民の姿と重なる。神の山から降りてくるモーセを待ち切れなくなったイスラエルの民は、黄金の子牛を造ってモーセと主なる神を裏切った。悪夢のような偶像崇拝の嵐が過ぎ去った後、主なる神はモーセにホレブを離れ前進するように命じられたが、しかし、イスラエルの民と一緒に同行することを拒まれた。ようやくモーセの執り成しによって彼らは、臨在の幕屋で主なる神に礼拝することを許され、モーセに尊敬の念を抱きながらもしかし、そのような感激と勢いも一瞬だけのもであった。彼らは荒れ野の旅で苦しい状況に遭う度にすぐ主なる神に背き、モーセを非難し、憎んだからである(出エジプト33:7~10)。

そして、主は見捨てられ、裏切られ、どのような人や状況にあっても、御父が共にいてくださると明らかにされた(16:32)。ただ、御子と御父との関係は、御子が十字架をもって我々人間の罪を背負われたその一度だけの時、絶たれた。それゆえ、主は十字架の上で大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(マタイ27:46)。また、主にある平安は、決して試練もなければ、憎まれることもないようなものではなく、それらを打ち破り、乗り越えることによって与えられるものであるがゆえに、主は、「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われた(ヨハネ16:33)。

しかし、弱くて心の定まらない我々人間が果たして自分の力で世に勝つことが出来るだろうか。使徒パウロは、コリント教会の人々の間で「裁判沙汰があること自体、既に彼らの負けだ」と厳しく告げた(コリントⅠ6:7)。パウロは、互いに愛し合うことのないあなたがたは、世に勝つどころか、既に負けだと言われた。それゆえ、主は「私があなた方を愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」と「新しい掟」をお与えになった(ヨハネ13:34)。詩編8篇は天地万物と人間を創造された主なる神を褒め称える「創造の歌」、また来るべき「メシア、キリストの歌」とも呼ばれる。

完全な人間として世に来られたキリストは、堕落のゆえに、エデンの園から追い払われたアダムとエバの子孫である我々人間の罪を贖ってくださり、御手によって造られた万物、全てのものを治めるよう我々に委ねてくださった(詩編8:4~7)。父なる神は、その独り子をお与えになった程この世を愛してくださり、御子イエスは、「わたしは既に世に勝っている」と勝利の宣言をされ、我々も世に勝利をおさめるように「新しい掟」を与えてくださった。どうか聖霊の御助けによって試練と苦しみを乗り越え、主にある勝利をおさめることが出来るように祈り、願う。

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