父にいたる一筋の道 5月18日説教 梁在哲牧師 サムエル記下1章17~27節 ヨハネによる福音書14章1~11節 主イエスは、逮捕される前、ユダの裏切りとペトロの離反について予告された。その話を聞いた弟子たちは、皆、心を騒がしていた。ところが、主イエスご自身も、この数日間、心を騒がしておられたゆえに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と彼らを慰めてくださった。人間の全ての悩みと憂いを追い払う道は、キリストご自身にある父なる神を信じる道しかないからであった。そして、弟子たちに場所を用意してくださるために彼らを離れて行かれると言われた(ヨハネ14:1~2)。これからご自分の十字架の死と復活を通して天の父の家の門を開いてくださるからであった。それゆえ、使徒パウロは、「父なる神の右に座っていてわたしたちのために執り成してくださる復活させられたキリスト・イエス」がわたしたちの場所をも用意してくださると証した(ローマ8:34)。 また、主イエスは、「行って場所を用意したら、弟子たちを迎えるために再び来られる」と約束された。ところが、これから行かれるご自分の道を弟子たちは、知っていると言われたのに、疑い深いトマスは、どうして、その道を知ることができるでしょうかと反問した(ヨハネ14:3~5)。トマスと他の弟子たちは、主がこれから行かれる十字架と復活の道を知らなかったからである。ついに主は、「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われた(6節)。これから御子は、ご自分の十字架の死と復活を通して「父なる神にいたる一筋の道」、永遠の命への道を開いてくださるからである。詩編の記者も、主なる神との契約と定めを守る人にとって主の道は、まこと(真理)と慈しみであると詠った(詩編25:10)。 そして主は、ご自分を知る者は、御父を知るようになり、ご自分を見た者は、御父をも見るようになると言われた(7節)。ところが、フィリポは、モ-セのように自分も父なる神に直接出会いたいと願った。そこで主は、「私を見た者は、父を見たのだ」と驚くべき宣言をされた(8~9節)。ご自分を通して父なる神に出会い、見ることが出来る道が開かれるからである。洗礼者ヨハネも「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と証した(ヨハネ1:18)。また、主は、ご自分の言葉と業は、父なる神の言葉と業であり、ご自身、父の內におり、父がご自分の內におられると言われた後、ご自分のそれらの言葉を、「もし、信じないなら、ご自分の業そのものによって信じなさい」と言われた(10~11節)。 ダビデは、救い主の慈しみとまことによって地の果てまで全ての人は、「救いの御業」を見るようになると預言した(詩編98:1~3)。パウロもキリストの十字架の死と復活を通して贖われる体の解放を待ち望む希望によって救われていると、「救いの御業」を告白した(ローマ8:23~26)。御子の御言葉と御業によって示されたのは、父なる神を愛し、隣人を愛する愛の実践に他ならない。その愛の実践に到底、及ばない愛にも拘わらず、ダビデは、親友ヨナタンは、勿論、自分に物凄いねたみを抱き、殺そうとしたサウル王すら愛し、二人の死を悼み、哀歌を詠んだ。(サムエル下1:17~23)。御子の御言葉と救いの御業によって示された父なる神の愛を聖霊の御助けによって実践することができるように祈り、願う。 |