復活であり、命であるキリスト 5月11日説教 梁在哲牧 ネヘミヤ記2章11~18節 ヨハネによる福音書11章17~27節 マリアとマルタ姉妹、兄ラザロは、主イエスと家族ぐるみで親しくしていた。ある日、ラザロの病気のお知らせをイエスに伝えるために遣わされた者が出発した後すぐ、ラザロは、死んでしまった。そこで「イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」。ベタニアは、エルサレムに近く、ラザロの家は、その辺で良く知られていたので大勢の人々が慰めに来ていた(ヨハネ11:17~19節)。イエスを出迎えにいったマルタは、遅れて来られたことを責めた訳ではないが、「ここにいてくださいましたら、ラザロは、死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは、何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」と言った(21~22節)。マルタは、イエスの癒しの力が、まだ「ここに」にしか及ばないと思い込んで遠く離れても癒してくださり、また、死んだ者をもよみがえらせてくださる主イエスの御力をまだ信じなかった。それゆえ、マルタは、信じる信仰ではなく、承知している信仰の状態にとどまっていた。 そこでイエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じておりますと言った」(23~24節)。しかし、イエスが言われた復活とマルタが思った復活の間には、大きな隔たりがあった。イエスは、今現在の復活を、マルタは、最後の終りの日の復活を言ったからである。ファリサイ派の人々さえ、最後の復活を信じたので人々は、終りの日の復活をもってマルタを慰めた。最後に主は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われた(25~26節)。命の源でおられる主の内にある命に復活は、含まれているからである。それゆえ、使徒パウロは、主が再び来られる時、「キリストに結ばれて死んだ者が先ず、最初に復活し、それから、生き残っている者が空中で主に出会うために彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられる」と証した(テサロニケⅠ 4:16~17)。ついに、マルタの答えは、承知や存じておりますから「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は、信じております」に変わった(27節)。死んだラザロを生き返らせてくださった主は、受け入れ難い死の「絶望」から正に「命の再建」を成し遂げられた。 使徒パウロが証したように命の再建こそ、父なる神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である体の再建に他ならない(コリントⅠ12:3・13)。バビロン捕囚の子孫としてペルシャ帝国のアルタクセルクセス王の献酌官であったネヘミヤはエルサレムからの知らせを聞き、エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。城壁は破壊され、城門は焼け落ちていたと絶望したが、主なる神に祈り、王からエルサレムの総督として遣わされ、城壁を再建した(ネヘミヤ2:11~18)。彼が絶望の中、天にいます神に祈ったように詩編の記者も英知をもって天地万物を創造された天にいます神の驚くべき御業と威厳を褒め称えた(詩編136:4~9)。主のお体なる教会も、我々も時には、絶望の前に立たされる。「復活であり、命である御子イエス」が罪と死の力を打ち破り、荒廃し、破壊され、焼け落ちていた城壁のような体、しかし、父なる神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿なる体に新しい命の再建の希望をもたらしてくださるように祈り、願う。 |