朽ちることのない御言葉 5月4日説教 梁在哲牧 列王記上17章17~24節 マタイによる福音書12章38~42節 主イエスは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた時、「神の子なら」という言葉で試された。また、律法学者やファリサイ派の人々は、いつも主イエスに「しるし」を求めて来た(マタイ12:38)。ところが、それらは、裏を返せば、「お前が本当に救い主、神の子なら、その根拠としてしるしを見せてご覧」、という狙いであった。しかし、主イエスは、彼らの要求に反論され、お互いの対立は、益々激しくなり、決定的な場面を迎えるようになった。そもそも、しるしは、真理についてその証拠を表わす言葉であるが、ファリサイ派の人々が主イエスに求めたしるしは、決して真実な信仰のためではなくて、むしろ、罠にかけようとする、悪意に満ちた計略の言葉であった。しかし、ニコデモのような真実な者にとって主イエスのしるしは、天から来られたものであった(ヨハネ3:2)。いずれにせよ、ユダヤ人たちは、いつもしるしを求めていると使徒パウロは証した(コリントⅠ 1:22)。 そこで主イエスは、彼らの要求は、見かけでは、正しいものと聞こえるかも知れないが、心の中心は、既に神から離れたゆえに、そのような「よこしまで神に背いた時代の者たち」には、どんなしるしも意味もなく、空しいものになると思われた。それゆえ、ご自分の十字架の死と復活を証しするヨナのしるしのほかには、与えられないとお答えになった(マタイ12:39~40)。そこで主イエスは、ニネべの人々は、ヨナの伝道を受け容れ、悔い改めたが、しかし、ユダヤ人たちは、ヨナにまさるご自分の福音としるしを見聞きしながらも、悔い改めせず、その結果、最後の裁きの時、ニネべの人々から訴えられ、罪に定められると言われた。そして、南の国の女王は、地の果てから、遠路はるばるソロモンの知恵を求めて来たが、ユダヤ人たちは、御自ら、訪ねて来られたキリストの救いの福音を拒んだゆえに、最後の裁きの時、彼女から訴えられ、罪に定められると言われた(41~42節)。 主なる神は、アハブ王と妻イゼベルから逃れていた預言者エリヤに「シドンのサレプタに行き、そこに住め。私は、一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」と言われた(列王記上17:9)。その後、重い病気にかかったやもめの息子が息を引き取ってしまった。しかし、人知を遥かに越える主なる神の御業に全てを委ねたエリヤの祈りの声に主なる神は、耳を傾け、その子の命を元にお返しになり、子供は生き返った。エリヤが示したしるしの出来事の前にやもめは、まことの神の人エリヤが伝えた神の御言葉は、真実であると、告白した(17~24節)。詩編の記者は、主なる神の御業に全てを委ねた真実な者の嘆き祈りの声にお答えになる主なる神の慈しみと恵みを褒め称えた(詩編116:1~5)。世の人々は、目に見えるしるしと知恵を探し求めているが、わたしたちは、朽ちることのない御子イエス・キリストの御言葉と父なる神の知恵と聖霊の御助けを探し求める。朽ちることのない御子イエス・キリストの御言葉こそ、父なる神にいたる一筋の道を照らす光であることを信じる確かな信仰を深めるように聖霊の御助けを祈り、願う。 |