主の復活の喜びと希望 4月27日説教 梁在哲牧 イザヤ書65章17~25節 マタイによる福音書28章11~15節 主イエスを十字架につけてしまった祭司長らの偽りと陰謀は、十字架の出来事の後にも、また主の復活にいたるまで続いた。婦人たちが主の復活のお知らせを携えて弟子たちに行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した(マタイ28:11)。番兵たちは、もともと、総督の兵士であったのにあえて、祭司長たちのほうに向かった。多分、イエスの遺体を見守るべきだったのに居眠りしてしまい、自分たちの失敗を隠すために、祭司長たちのほうに向かったと思われる。そこで祭司長や長老たちは、宗教指導者の立場にも拘わらず、自分たちの陰謀のゆえに、偽りの事実を広めるために、不正な賄賂を兵士たちに費やした(12節)。一方、兵士たちも多額の金の誘惑に陥って真実の前に目をつぶし、良心を売ってしまった。その後、祭司長らは、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさいと、平気に偽りを兵士たちに指示した(13節)。 実際、兵士たちは、復活されて主イエスに直接会った訳ではなかったが、既に主の天使に会って、恐ろしさの余り、「死人のようになった」と福音書は、伝えている(4節)。彼らは、既に空のお墓と主の復活の知らせを見聞きしたので、祭司長らの指示は、真実ではないことを知りながらも、自分たちの失態を隠すため、お金を受け取り、教えられたとおりにした。その後、祭司長らは、イエスの遺体を見守るべき番兵が居眠りしてしまった事実がもし、発覚されたら兵士たちは、死刑の罪に問われるはずだったので彼らを改めて安心させた。それゆえ、その偽りの証言は、当時だけに止まらず、今日に至るまで、時代ごとに様々な形で繰り返して広まっていた(14~15節)。しかし、使徒パウロは、キリストの復活がなければ、我々の復活もなく、もし、我々の復活がなければ、我々の信仰は空しく、今も、なお罪の中にあり、この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、我々はすべての人の中で最も惨めな者になると、証した(コリントⅠ15:17~19)。 この世の生活だけではなく、主が再び来られる時、我々の体は贖われ、解放されることを待ち望んでおり、その希望によって救われているからである(ローマ8:23)。それゆえ、主の復活のお知らせはイエスを信じない者には、「弟子たちのでっちあげ」となっているが、イエスを信じる者には、「喜びと希望のお知らせ」となっている。預言者イザヤは、救い主の復活による新しい創造と泣く声や叫ぶ声の響くことのない喜びと希望を預言した(イザヤ65:17~19)。詩編16篇は、ペトロもパウロもキリストの復活を証しする際、引用したほど、メシア箇所として知られている(使徒2:25~28、13:35)。詩編の記者は、キリストの復活への希望と聖徒らの復活への希望と喜びを歌い、永遠の命の道を教えてくださる主なる神を褒め称えた(詩編16:8~11)。「命の道」とは、命の源でおられる主なる神の御前に近づく道であり、その命は、主なる神と共にいる永遠の命である。御子イエスは、一回限りの十字架の贖いと復活によって命の源でおられる父なる神の御前に近づく一筋の道を開いてくださった。聖霊の御助けによってためらうことなく、主の復活の喜びと永遠の命への希望を宣べ伝えることが出来るように祈り、願う。 |