恐れず、良い知らせを告げなさい 4月20日説教 梁在哲牧 創世記1章1~5節 マタイによる福音書28章1~10節 マグダラのマリアともう一人のマリアお二人の婦人は、安息日が終わった週の明け方、朝早く、イエスのお墓を訪れていた。婦人たちは、イエスが十字架につけられ、息を引き取られた後、葬られる時までその全てを遠くから見届けて、仕え続けて来た。しかし、婦人たちは、天使から「あの方は死者の中から復活された」と主イエスの復活のお知らせを聞き、恐れと喜びの中で弟子たちにそのお知らせを伝えるために走り出した。すると、復活された主イエスが現われ、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。そこで主イエスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われた(マタイ28:8~10)。 以前、弟子たちは暴風の中で湖の上を歩いて来られる主イエスを見て幽霊だと叫んだ。しかし、婦人たちは、近寄り、イエスの足を抱き、御前にひれ伏して喜びと尊敬と愛を、身をもって表した。福音書において復活された主イエスのお体は、トマスの前で(ヨハネ)、また、エマオへ向う二人の弟子の前で(ルカ)、異なっているが、婦人たちは、一目で復活された主イエスに気づいた。主の復活の事実は、真っ先に弟子たちに伝えられ、彼らは、主イエスの復活の証人となり、キリストのお体なる真の教会は、その証人として主イエスの復活を宣べ伝え続けて来た。しかし、不信仰者たちは、イエスの復活について福音を告げ知らせると、また死者の復活と言うことを聞くと、あざけり、無関心であった(使徒17:18、31~32)。 使徒パウロは、「体の贖われることを、待ち望んでおり、このような希望によって救われている」と、主が再び来られる時、死者の復活を証した(ローマ8:23~26)。体のよみがえりがなければ、死は全ての終りであり、そこに希望はないからであった。その復活の体が一体どのようなものであるかは、定かではないが、体を離れた命を考えることは出来ないゆえに、私たちは、使徒信条をもって「体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と告白し続ける。罪と死の奴隷となっていた私たちを解放してくださるために主イエスは、ご自分を身代金として払われ、私たちは、贖われた。主イエスは、一回限りの十字架の贖いによって「成し遂げられた」と叫ばれ、息を引き取られた。南ユダのヒゼキヤ王は、アッシリヤの軍隊から解放されたゆえに、「主なる神の贖いの御業」を褒め称えた(詩編66:1~5)。 教父たちは、イースター毎に「キリストにあって新しい創造が始まったゆえに、私たちを新しくしてください」と、天地創造の第一日と第六の日に創造された万物と人間が、復活の主によって新しく創造されるように祈った(創世記1:3~5、26~27)。私たちの罪のために傷つけられた主の御手と足のゆえに、私たちは、復活の主の御前で戸惑い、震え、恐れを覚える。それらの恐れなどは、皆、それぞれ異なっていると思われる。しかし、十字架の上で「成し遂げられた」と叫ばれた主のお声のゆえに、私たちは、復活の主に近寄り、その足を抱き、御前にひれ伏すことが許される。キリストの復活を喜び祝うイースターの朝、「恐れず、この良い知らせを告げなさい」と言われる主のお声に励まされ、世に遣わされる者として折を得ても、得なくても主イエスの十字架と復活を宣べ伝え続けたいと祈り、願う。 |