裏切られ、さげすまれたキリスト

4月13日説教

梁在哲牧

 

ゼカリヤ書9章9~10節  マタイによる福音書27章32~56節

 キリスト以前と以後によって西暦が紀元前B.C.と紀元後A.D. に分けられるように、キリストの十字架の出来事の前後によって、御救いの道が整えられ、預言される時期と救いの御業が成就され、成し遂げられる時期に分けられる。そのキリストの十字架の出来事の前に預言者ゼカリヤは、平和の王としてメシアは来られて御救いの道が整えられると、預言した(ゼカリヤ9:9~10)。主イエスはこの数日間、食べず、悩まれ、夜通しで尋問され、既に気力が衰えている中で十字架を背負って行かれた。しかし、途中で到底その十字架をお一人で耐え切れなくなり、兵士たちは、シモンという名前のキレネ人に出会ったのでイエスの十字架を無理に担がせた(マタイ27:32)。ついに主イエスは、十字架につけられたが、十字架の刑罰は、人間が感じる極限の苦しみだと言われる。ところが、その悲惨な刑罰の下で兵士たちは、自分の私腹を肥やしていた(35~36節)。

十字架刑という極限の苦しみは、勿論、主イエスは、弟子たちに裏切られ、祭司長や長老たちと律法学者たちや群衆にあざけられ、さげすまれ、兵士たちに侮辱され、強盗さえ、イエスをののしった。十字架とそこに至るまでの肉体的な苦しみは、目に見えるものであるが、しかし、人々に拒まれ、父なる神より沈黙され、見捨てられる、目に見えない苦しみのゆえに、キリストは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた(45~46節)。イエスが再び大声で叫び、息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けられた(50節)。もう、贖罪の儀式は過ぎ去って一回限りのキリストの血潮によって人々の罪は、赦されたゆえに、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではなくなった。それゆえ、ペトロは人々は誰でも皆、祭司長になって父なる神の御前に近づくことが許されると証した(ペトロⅠ2:9)。へブライ人への手紙の記者は、「イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って新しい生きた道を私たちのために開いてくださった」と証した(ヘブライ10:20)。

主のご受難は、今日においても目に見える争いや暴力の中で、また、沈黙され、無関心の中に放置され、目に見えない孤立や拒絶の中で現われている。主は、そのような人々のために十字架の苦しみを受けられた。詩編の記者は、異邦の国々に捨てられた石のようなイスラエルを隅の親石と用いられた主なる神の御業を褒め称えた(詩編118:22~23)。それゆえ、主は、ユダヤ人に捨てられたご自分を異邦人の隅の親石と用いられた父なる神を褒め称えた(マタイ21:42)。父なる神は、弟子たちに裏切られ、人々にさげすまれ、ユダヤ人によって捨てられた御子イエスを異邦人の隅の親石と用いてくださった。そして御子イエスは、十字架の苦しみを受けられ、ご自分の肉を通って永遠の命への新しい道を私たちのために開いてくださった。主のご受難を覚え、御子イエスの恵みと父なる神の愛、聖霊の執り成しと交わりに感謝しつつ、イースターを迎えたいと願う。   

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