重荷を共に担う者

4月6日説教

梁在哲牧

 

創世記25章29~34節  マタイによる福音書20章20~28節

ゼべダイの子、ヤコブとヨハネの母サロメが二人の息子と一緖にイエスの所に来てひれ伏し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は、左に 座れるとおっしゃってください」と願った(マタイ20:20~21)。しかし、イエスは、母サロメではなく、弟子たちに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とお答えになった。厳密に言えば、人は誰でも聖霊の御助けがなければ自分が何を願っているかを分かっていない。それゆえ、使徒パウロは、正しい祈りのために執り成してくださる聖霊の助けを証した(ローマ8:26)。そしてイエスは、二人に、「この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか」とお聞きになったが、二人は、「できます」と答えた(マタイ20:22)。二人の弟子は、杯の本当の意味について深く考えず、これからキリストが飲もうとする杯の意味も知らないまま、その杯こそ、王様が授ける「栄光の杯」だと思い込んで安易に答えた。

物事への無理解、安易な考え、軽んじる態度は、長子の権利を軽んじて弟ヤコブに譲ってしまった兄エサウの物語でもよくあらわれている(創世記25:31~34)。そこで、イエスは、「確かに、あなたがたは、私の杯を飲むことになる」と言われた(マタイ20:23)。それは、近い内に二人は、その杯の本当の意味を知るようになり、ご自分の苦難にあずかるその杯を飲むだろうと主イエスは知っておられたからである。そこでイエスは、弟子たちの間で起こり得る争いや嫉妬などの危うさを感じて、彼らを呼び寄せ、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と厳しく戒められた(25~27節)。名もなき無名の奉仕者や自分を犠牲にして人を助ける者が偉い者となり、一番上の者になるからであった。それゆえ、使徒パウロも、自分は、「福音に仕える者」であり、「キリストの僕」だと、証した。最後に主イエスは、皆に仕える者となり、皆の僕となることは、ご自身仕えられるためではなく、仕えるためにまた、多くの人の身代金として自分の命を献げるために世に来たのと同じであると言われた(28節)。

キリストは、罪と死の奴隷となっている私たちを解き放ってくださるために、ご自分の十字架の血潮を身代金として払われた。それゆえ、ご自分を裏切り、名誉や誉れのために目立つようになりたがっていた弱い弟子たちにも拘わらず、その先を見据えて、偉い者や一番上の者ではなく、皆に仕える僕となり、「重荷を共に担う者」になるように願っておられた(マタイ11:28)。詩編の記者は、人間の助けは、限界があり、裏切りもあり得るが、しかし、いつも味方でおられる主なる神の助けは、限りなく、変わらないと褒めたたえた(詩編118:6~9)。我々が打ち砕かれて壊れやすい心と重荷を背負って主イエスの御前に近づく時、主イエスは、我々のありのままの心を受け容れ、その重荷をも共に担ってくださる。主イエスは、罪と死の奴隷であった私たちを解放してくださるためにご自分の十字架をお一人で背負われ、御自ら血潮を身代金として払われた。主イエスに倣って人々に仕える僕として、また、重荷を共に担う者として与えられている信仰の道を歩みたいと祈り、願う。

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