痛みを伴う解放

1月25日説教

梁 在哲 牧師

 

申命記30章11~15節  マルコによる福音書1章21~28節

主イエスは、ある安息日にカファルナウムの会堂で教え始められた。ところが、イエスの教えは、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたので人々は、非常に驚いた(マルコ1:21~22)。何故なら、それは、単純に律法を暗唱し、言い伝えにこだわる律法学者の教えと全く違う、権威に満ち溢れたからであった。ところが、主イエスが丁度、語り始めるその時、この人を抑えつけ、支配していた汚れた霊は、ナザレのイエスというこの人が来るべきメシアであることをすぐ分かって、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は、分かっている。神の聖者だ」と叫んだ(23~24節)。汚れた霊は、わたしたち人間の目には、見えなないが、まるで遠心分離器のように神から私たち人間を引き離す力に他ならない。

しかし、イエスより、「黙れ。この人から出て行け」と叱られた汚れた霊は、その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った(25~26節)。そのお叱りは、御言葉をもって天地万物を創造された父なる神の御子イエスの御声であり、逆らうことの出来ない、絶対的な命令の御声であった。詩編の記者ダビデは、主なる神の御声を畏れ敬い、褒め称えた(詩編29:3~9)。ところが、汚れた霊は、素直に退けず、激しく抵抗しながらその人にけいれんを起こさせた後、大声をあげて出て行った。ついにその人は、主イエスによって神から引き離されて苦しい絶望から解放されたが、それは、けいれんを引き起こすような痛みを伴う解放であった。しかし、我々は、十字架を背負われ、我々の痛みと苦しみを共に担われ、御言葉をもって神から引き離す力から我々を解放してくださる主イエスのゆえに、その痛みを自分一人で背負う必要はない。

モーセは、モアブの平野でイスラエルの民に「主なる神の戒めは、決して難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と告げ、「主なる神の御言葉は、あなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と戒めた(申命記30:11~14)。しかし、イスラエルの民は、不信仰のゆえに、主なる神の戒めを守り切れなくなった。そこで、全てにおいて耐え忍ばれた父なる神は、御子イエスを世にお遣わしになり、御子イエスは、ご自分の十字架の血潮を身代金として払われ、罪と死の奴隷であったわたしたちを解き放ってくださった。その良い知らせ、喜ばしい福音のゆえに、けいれんを引き起こすような「痛みを伴う解放」は、「喜びを伴う解放」に変えられるようになった。今も痛みを共に担われ、ご自分の良い知らせ、福音の喜びの中に招いてくださる主イエスの御声に励まされ、地上の旅路を歩み続けたいと祈り、願う。

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