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わたしはあなたを喜ぶ 1月11日説教 梁 在哲 牧師 エジプト記14章15~22節 マルコによる福音書1章9~11節 主イエスは、育てられた故郷ナザレを離れ、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、公の生涯の第一歩を歩み始められた(マルコ1:9)。主が洗礼を受けられた後、水の中から上がるとすぐ、天が 裂けて“霊 "が鳩のように 御自分に降って来るのを御覽になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が天から聞こえた(10~11節)。天からのお声は、御子イエスの公の生涯を通して繰り返して聞こえて来る父なる神のお声であった。それゆえに、そのお声は、人々に歓迎されたり、排斥されたりするすべてのことを乗り越えて御子イエスを導いてくださり、十字架の犠牲を通して罪と死の奴隷であった我々を解放してくださる救いの御業を完成させる力となる。 「私の心に適う者」という言葉は、「私はあなたを喜ぶ」とも訳されている。父なる神は人間として洗礼を受けられ、公の生涯を歩み始められる御子イエスをご覧になり「私はあなたを喜ぶ」と言われた。それは、父なる神の御目に御子は、「愛する、喜びの存在」でおられるからであった。ところが、「私はあなたを喜ぶ」と言う父なる神のお声は、御子だけではなく、ヨルダン川の水辺にいた沢山の人々にも向けて語られたお声ではなかろうか。何故なら、御子が私たちと同じ人間として洗礼を受けられる模範を示されたゆえに父なる神は、御子の模範に倣って新たに歩み始めようとする我々の姿をも愛し、喜んでくださるからである。 「私はあなたを喜ぶ」と、天から聞こえて来る父なる神のお声は、何か我々の努力や知恵や功のため、或いは我々が正しいから聞こえて来るお声ではなく、ただ、父なる神の愛と御慈しみによるお声ではなかろうか。ダビデは、人間は、主なる神の愛と慈しみのゆえに救われ、主なる神の真実のゆえに裁かれると、主なる神の慈しみと真実を褒め称えた(詩編36:6)。洗礼は、今までの自分を捨てて、悔い改め、罪と死の奴隷の状態から解放され、新しく歩み出す意味において痛みを伴う大きな決断が求められる。しかし、主イエスは、神の子だから何か特別ではなく、私たちと全く同じ人間として来られて、洗礼を受けられた。 私たちに痛みや苦しみを伴う物凄く大きな決断が求められる時のように、奴隷の国エジプトから解放され、葦の海を渡るイスラエルの民も、また、モーセにも、それらの決断が求められた。それゆえ、葦の海を渡る奇跡の出来事は、洗礼の象徴としてよく例えられる(出エジプト14:21~22)。この新しい年の初めにあたり、私たちに痛みや苦しみを伴う大きな決断が求められる時、たとえ、それが洗礼であれ、信仰生活であれ、聖霊の御助けによって私たちと共にいてくださる御子イエス・キリストの模範に倣いつつ、「私はあなたを喜ぶ」と言われる父なる神のお声に励まされ、新しい一歩を歩み始めたいと祈り、願う。 |