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心に納める主の言葉 1月4日説教 梁在哲牧師 ゼカリヤ書8章1~8節 ルカによる福音書2章41~52節 「少年イエスの両親は、過越祭には、每年エルサレムへ旅をして、少年イエスが大人になる前の12歲になった時も祭りの習慣に従って都に上った」(ルカ2:41~42)。当時、過越祭には大勢の群衆がエリサレムに集まって来る混雑の中で迷子は、日常茶飯事のことであった。イエスの両親も祭りの期間が終わって帰路についた時、少年イエスは、エルサレムに残っておられたが、それに気づかず、イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまった。それから、両親は、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレム に引き返した(43~45節)。三日後ようやく両親は、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりしておられるのを見つけた。会堂でそれらを聞いていた人は皆、少年イエスの賢さに非常に驚いた(46~47節)。両親は、やっとイエスを見つけて驚き、母マリアは、皆、心配して捜していたのに、何故こんなことをしてくれたのと、言った。 ところがイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは、当たり前だということを知らなかったのですか」と言った(47~48節)。預言者ゼカリヤは、バビロンからエルサレムに帰還してエルサレムの神殿が再建され、回復されるのは、人間の力ではなく、主なる神の御力のみによるものだと告げた。彼は主なる神は、再びシオンに来て、ご自分の家エルサレムの真ん中に住まわれ、エルサレムでの新しい日を約束してくださると、告げた(ゼカリヤ8:2~5)。さて、両親はイエスの言葉の意味が分からなかった。しかし、その言葉の意味が分からなかったとしても、母マリアはそれら全てを心に留め、納めた。その間、イエスは、両親に仕えつつ暮らし、知恵が増し、背丈も伸び神と人に愛された(ルカ2:51~52)。母マリアは、主のご誕生の際にも、羊飼いを通して告げられた神の御旨を心に納め、思い巡らしていた(ルカ2:17~19)。 母マリアは、羊飼いたちのお告げも、また、少年イエスのお言葉もその意味が分からなかったとしても、それらを拒むことなく、心に留め、思い巡らして、心に納めた。詩編の記者は、主なる神に言われる言葉の意味が分からなかったとしても、それらを拒むことなく、心に留め、心に納め、主なる神の慈しみを褒め称えた。そして、バビロンの捕囚となっている悲惨な現実の中でも主なる神は、御自ら、ダビデに誓われたご約束の言葉を成し遂げてくだると、褒め称えた(詩編89:2~5)。使徒パウロは、キリストの福音こそ、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力のゆえに、自分は、福音を恥としないと証した(ローマ1:16)。新しい年の朝、厳しい現実の課題と、神の御心の間に置かれている深い溝のその意味が、また、キリストの福音のその意味が分からなかったとしても、主イエス・キリストの良い知らせ、福音を恥とせずに、主のお言葉を心に留め、心に納め続けることができるように祈り、願う。 |