高き山の上の主

3月15日説教

梁 在哲 牧師

 

出エジプト記24章12~18節  マルコによる福音書9章2~10節

主イエスがご自分の受難と復活を予告された後、その六日の間、弟子たちは、これから一体、何が待ち受けているのだろかと不安の中にあった。そのような状況の中で、「イエスは、ただ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、その山の上で、イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は、真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなり、更に、エリヤが、モ-セと共に現れて、主イエスと語り合っておられる」その光景を三人の弟子は、目の当たりした(マルコ9:2~4)。御子イエス・キリストの十字架の苦難と死の彼方に現われる父なる神の栄光をペトロとヤコブとヨハネだけが目の当たりした。主なる神は、「私のもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。私は、彼らを敎えるために敎えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモ-セに言われ、彼は、神の山へ登って行った。すると、主なる神の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は6日の間、山を覆っていた。主なる神の栄光は、イスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えて、モ-セは、40日40夜そのシナイ山の上にいた(出エジプト24:12~18)。

他の2人の弟子も、目の前で起きているその光景が、一体どういう意味なのか、理解することができなかったゆえに、非常に恐れていた。殊に、ペトロは、どう言えばよいのか、分からないまま、主イエスに、「先生、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモ-セのため、もう一つは、エリヤのためです」と言った(マルコ9:5~6)。ペトロは、その素晴らしい光景を目に見える形として残したいと思ったのではなかろうか。しかし、彼が目に見える形で、残したかった素晴らしい光景は、「これは私の愛する子。これに聞け」と言う雲の中からの声と共に消え去った(7節)。それは、主イエスがヨルダン川で洗礼受けられた時、天から聞こえて来たお声と同じ言葉であったが、今回は、「これに聞け」と言うお声をも聞こえて来た。「これに聞け」は、ヘブライ語で、「シュエマ」と言われるが、イスラエルの民が朝晩、暗唱する信仰告白であり、お祈りである(申命記6:4~5)。それゆえ、「シュエマ」は、単なる聞くことだけではなく、耳を傾けて傾聴する上で、へりくだって従順することをも求められる。

使徒パウロも「実に信仰は、聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」と証した(ロ-マ:10;17)。ダビデは、息子アブサロムの反逆のゆえに、主なる神に自分を救ってくださるように切実に祈った。ダビデは「主よ、呼び求める私の声を聞き憐れんで私に答えて下さい」と、主なる神に「シュエマ」を求め、願った(詩編27:7)。さて、主イエスは、下山しながら「人の子が死者の中から復活するまでには、今見たことを誰にも話してはいけない」と弟子たちに命じられた(マルコ9:9)。ご自分の十字架の苦難と復活を弟子たちが経験した後に今、見た光景を理解できると思われたからである(ペトロⅡ1:17~18)。弟子たちは、この言葉を心に留めて「死者の中から復活する」とはどういうことかと論じ合うことしかできなかった(マルコ9:10)。高き山の上で栄光のお姿に変えられた主イエスが再び来られる時、私たちをも栄光の姿に変えてくださるように望みを託しつつ、信仰の歩みの中で、たとえ、「よく分からず、理解できない」のような出来事の前にも、「これに聞く」信仰の歩みを続けることができるように祈り、願う。

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